石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 湖南市正福寺 正福寺(永厳寺跡)宝塔

2007-06-02 12:38:54 | 宝塔・多宝塔

滋賀県 湖南市正福寺 正福寺(永厳寺跡)宝塔

地名の元になっている正福寺は奈良時代良弁僧正の開基、弘仁年間、興福寺の願安が再興し、後に天台宗に転じたと伝え、往時は大伽藍と多数の子院を抱えたというが戦国の兵乱で退転し、江戸時代に復興、現在は浄土宗という由緒ある寺院で、街道から東方の山手に少し上った山林に囲まれた閑静な場所にある。01_9 南都系から天台に転じ、多数の子院塔頭房を擁しながら戦乱で衰亡に向かうというパターンの伝承を持つ山岳系の寺院は金勝山、阿星山、少菩提寺山などこの地域に多い。しかし単なる伝承と片付けられないのがこの地域のすごいところである。それを裏付けうるだけの古い仏像などが今も伝承され山林内に子院跡と思われる削平地がいたるところに残っている。正福寺もそういった例のひとつ。現在の正福寺は大日寺で、その東西に清寿寺と永厳寺があったが、今は廃絶し大日寺に統合されて正福寺として現在に至っている。永厳寺は現在の正福寺の東方、徒歩3分程のところにあって、今は小堂一宇、石積と参道が残るだけの墓地になっている。その一画に目を見張るような立派な石造宝塔が凛と佇む。 相輪は後補だが総高は4mに近く、稀に見る巨塔といえる。花崗岩製。長い切石で囲んで周囲と区別し基壇状となし、基礎は低く前後二石からなり、四面とも輪郭も格狭間もない素面で底部など荒仕上げのままの部分が見られる。塔身は軸部と首部が一石からなり、軸部は円筒状で四方に扉型を薄く陽刻する。すなわち軸部上下に長押を帯状に表現し(上は二重)、柱ないし定規縁や方立部分を表すと思われる縦方向の陽帯で区画し、間の扉面をわずかに窪めている。こうした扉型の表現は石造宝塔にあっては定型的だが、永厳寺塔は何となく漂う稚拙感が却って古調を示す。首部と軸部を分ける框の突帯はなく、饅頭型に当たる曲面は比較的短く終わり、内傾ぎみに立ち上げた大きい匂欄部分には地覆、平桁などを陽刻している。首部は無地で短く比較的太い。笠は、底面笠裏に宝篋印塔の段形風の斗拱型を3段に重ねる。斗拱型段形の分の高さを差し引けば全体としては低平で、軒はやや薄く、隅で反りを見せる。若干の照りむくりを見せる降棟の断面凸形の突帯の削り出しは精巧で優れた彫技を見せる。02_9 露盤は比較的高く、四面に一区の輪郭を巻いて内部に格狭間を入れている。格狭間の形状は整った鎌倉風を示す。笠には大きくヒビが入り、ところどころ表面が荒れた感じになっており、風化や倒壊による欠損というよりは火中したのかもしれない。相輪は伏鉢が非常に縦長で、平板な請花の形状は江戸時代風。明らかに後補で、塔全体のバランスからいけばいくぶん長過ぎるようである。したがって元は12尺塔と推定する。 規模の大きさ、框を設けない塔身、手の込んだ匂欄や露盤の意匠など随所に石造美術の意匠表現が最盛期を迎えた鎌倉後期頃の特徴を見せる。一方で定型化した塔身軸部の扉型表現、軒が薄めで隅反りがやや弱い点は新しい要素とみられる。総合的に見て造立年代は鎌倉後期の後半、14世紀前半ごろと推定したいがどうであろうか。なお、塔身軸部に貞観三年(861)紀年銘を有し、案内看板にも平安時代の塔である旨が載っているが、平安前期の年号はあまりに古過ぎ、偽銘と断定して差し支えない。

 

 

 

参考

池内順一郎 『近江の石造遺品』(下)362ページ、403ページ

川勝政太郎 『近江 歴史と文化』90~91ページ

 

余談:永厳寺跡の周辺には古墳が点在し、古墳を取り込んだと思われる中世城郭(東正福寺城跡)の土塁や堀などが子院跡とおぼしき削平地と複雑に交錯している。あるいは寺院系の城郭なのかもしれない。薄暗い竹林に宝塔を眺めていると長刀を携え高下駄を履いた僧兵がぬっと現われるのではないかという中世の幻想が頭をよぎるのであった。