石造美術紀行

石造美術の探訪記

奈良県 奈良市中ノ川町 中川寺跡五輪塔

2008-02-26 00:19:33 | 五輪塔

奈良県 奈良市中ノ川町 中川寺跡五輪塔(伝・実範上人廟塔)

県道から急な坂道を下って雑木林の中を何十メートルか行くと道の行き止まりのところに悠然と建っている。覚盛、叡尊らによる戒律復興運動に先鞭をつけた実範上人の廟塔と伝承され、地元の人の話によると興福寺による年一度の供養が今も続いているという。03側面二区で羽目石に格狭間を刻んだ立派な壇上積基壇の上に、蓮弁がやや高い複弁反花座を置き、五輪塔はその上に建つ。清水俊明氏は花崗岩製とされるが石英粗面岩製に見える(不詳)。無地で無銘だが典型的な鎌倉後期仕様でその特徴を余すところなく発揮する。高過ぎず低からず適度な安定感を持つ地輪、やや重心を上におくが下窄まり感の少ないスムーズな水輪の曲線、厚く切った軒反りは力強く、椀形の風輪、空輪の宝珠形も申し分ない。総高280.cm、塔高190.cm。整い過ぎの感もあり、高い反花座、火輪の軒口中央の直線部が目立つ点、基壇羽目石の格狭間の肩がやや下がっている点など鎌倉後期でも末に近い頃のものと思われる。基壇上には小さい石塔の残欠(空風輪と宝篋印塔の笠)が置かれている。実範上人の没年は平安末の天養元年(1144年)とされ、五輪塔の造立時期とはかなりの開きがある。04五輪塔のある場所は実範上人が開いた成身院のあった中川寺跡といわれ、『招提千歳伝記』によれば天永2年(1111年)に実範上人は中川寺から唐招提寺に移ったと伝えられることから、その開基は12世紀初頭であろうか。平安末期から鎌倉時代にかけて隆盛を誇ったようだが『大乗院寺社雑事記』に文明13年(1481年)本堂を残し寺は炎上したと記載されており、その後再興されたのだろうか、江戸末期まで興福寺一乗院門跡の持寺として本堂や多宝塔などがあったらしい。明治の廃仏毀釈により退転したという。現在は雑木林で他に何も残っていないが、山深い丘陵尾根の南向きの斜面を整地した平坦面が広がり、ところどころ空堀状の窪みが廻っている。平坦地に接する湿地となった谷側はそう高くないが急な崖状になっている。五輪塔のルーツを語る上でよく引き合いに出される五輪塔形陽刻のある神戸市徳照寺の梵鐘(長寛2年(1164年)銘(※これは再鋳銘らしく当初は大治4年(1129年)銘との由である)は、元ここにあったものとされる。五輪塔形のルーツ、そして鎌倉後期に五輪塔が大きく普及する原動力ともなった南都仏教の戒律復興運動のルーツを考える時、ここ中川寺跡は抜きに語れない由緒のある場所である。今となっては往昔を偲ぶよすがも何もかも一切が地上から消えうせた雑木林の木漏陽の下に五輪塔のみが一人黙って建っているだけである。

参考:清水俊明 『奈良県史』第7巻石造美術 290ページ

   平凡社 『奈良県の地名』 日本歴史地名辞典30 655ページ

   元興寺文化財研究所編 『五輪塔の研究』平成4年度調査概要報告書

   近畿日本鉄道・近畿文化会編 『大和路新書別巻1南山城』 綜芸社

妄言:雑木林に一人この伝・実範塔を眺めていると、その整美さゆえか、どこかすかした感じで何やら訳しり顔をしてくすくす笑っているかのようにも感じる。中川寺のことをずっとここで見てきたあんたはさぞかしいろんな事情を知ってるんだろうな・・・。しかしそういうあんた実は平安末期の実範さんには会ったことはねぇはずだろって言い返してやりました。実範さんは、後にここを出て光明山寺で亡くなったそうですが、南都法相系でありながら密教(醍醐寺系、天台も)、戒律、浄土教という気になるキーワードを早く平安末期にアイデンティファイされたキャラ。初期五輪塔を考える上でキーパーソンの一人と睨んでます。


奈良県 奈良市法蓮町 不退寺裏山墓地五輪塔

2008-02-24 11:11:24 | 五輪塔

 

奈良県 奈良市法蓮町 不退寺裏山墓地五輪塔

 

不退寺の北、04_3直線距離にして100mほど、門前の細い道を左にとって小さい池の横を通り、ウワナベ古墳の森を広い国道越しに左手に見ながら150mほど北上すると右手、人家奥の斜面に墓地がある。墓地に入ると左手、奥まったところの斜面下に大きい五輪塔があるのがすぐわかる。06四角く形成した黒っぽい安山岩を組合せて区画して一段高い基壇状に作っているが、石材の断面が新しいことから基壇状の区画は当初からのものとは考えられない。おそらく今の場所は原位置ではなく、どこか近くから移されたのではないかと思われる。火輪は地輪と少し時計と逆方向にずれている。在原業平の墓というのは、もとより伝承に過ぎない。複弁反花座は、一辺5弁の蓮弁を持ち、蓮弁の傾斜は緩く、側面の高さは全体の1/3程度と低い。地輪は低めで、水輪はやや重心を上にとった球形で、厚めに切った火輪の軒反りは力強く、風輪は少し背が高い椀形、空輪はやや押しつぶしぎみの宝珠形を呈する。01_2各部のバランス、保存状態ともに良好。隙のない整美な姿に厳しさを秘めた佇まいを見せる。無地で無銘。総高246cm、塔高222cmと大きい。きめの細かい青みがかった良質の花崗岩製。典型的な鎌倉後期仕様の大形の五輪塔である。台座の蓮弁5枚という例はあまり多くなく、天理市長岳寺五智墓に集中して例がある。不退寺と長岳寺を結ぶものは何であったのだろうか。いずれにせよ何らかの律宗系の影響下に1300年を前後する頃に、高僧の墓塔ないし墓地の惣供養塔として造立されたものとみて大過ないのではないだろうか。

 

 

参考:清水俊明 『奈良県史』第7巻石造美術 128ページ

   (財)元興寺文化財研究所  『五輪塔の研究』平成4年度調査概要報告


京都府 八幡市八幡 石清水八幡宮五輪塔

2008-02-21 00:24:51 | 五輪塔

京都府 八幡市八幡 石清水八幡宮五輪塔(航海記念塔)

石清水八幡宮の参詣者用駐車場に接する御旅所の左手奥、神応寺という寺に向かう参道と水路に囲まれた細長い三角形の一画に巨大な五輪塔がある。12想像していたほど大きくないというのが第一印象だったが、石段を上ってさらに近づき、間近で観察するとやはり大きい。台座の蓮弁は大きすぎて何枚あるのか一見しただけではわからない。自分の身長が地輪の上端高より低い。台座に登らないと地輪の上面が見えない。普通ならしゃがまないと見えない火輪の下面を見上げるとたくさんの鑿跡がはっきり残っている。正面から見上げる写真しか見ていなかったので、茫洋として間の抜けた印象を持っていたが、斜めの角度で少し離れてみると、この五輪塔の印象が変わる。空輪だけは全体に比較して少し小さい感じだが、これほどの大きさにもかかわらず、19全体の均衡がきちんととれている。ここは石清水八幡宮のある男山丘陵の東麓、神仏混合時代に存在した極楽寺という神宮寺の跡だという。五輪塔はその極楽寺の一角に建っていたとされる。このように巨大な五輪塔を移設することは考えにくいことから、元位置を保っていると思ってよいのではないだろうか。五輪塔は石垣と石柵で囲まれ、御旅所側からは一段高い場所にある。傍らに説明板があり、航海記念塔とある。平安末期に摂津尼崎の日宋貿易の商人が航海の無事を感謝して建立したものだという。あるいは、九州宇佐八幡を石清水に勧請した大安寺の僧行教の墓塔であるとか、西大寺の叡尊が蒙古襲来時に敵調伏の祈祷を行い、命を落とした元軍将兵の供養のために建立したものともいわれる。石を運ぶ時に火花で綱が焼き切れたので竹を利用して綱を作って引いたとか、八幡の忌明塔であったとか、伝承は多い。鎌倉中期終わり~後期初め頃とされた川勝博士の説に時期的にいちばん近いのは、叡尊による元寇供養説である。川勝博士が指摘されるように石清水八幡宮と関係の深かった西大寺を通じて大和系の石工の関与も十分に考えられる。五輪塔は花崗岩製で、高さ6.08m、地輪の幅2.44mとされるが、高さは総高なのか塔高なのかは不明。切石の基壇と反花06座の高さだけで50cmはありそうなので、6mを総高とするならば、塔高は約5.5mとなる。火輪の隅棟の曲線は伸びやかで、ぶ厚い軒先の反りは力強く、水輪はあまり下すぼまりとならない安定感のある球形で、どっしりとした低めの地輪とそれを受ける台座は傾斜が緩く曲線の伸びやかな単弁反花で荘厳され、隅弁は間弁(小花)にならないタイプ。その下の切石の基壇も含め、塔全体のバランスは見事に整っている。風輪はやや深めの鉢形で、空輪の宝珠形も申し分ない。地輪は一石ではなく、下部に数個の石材を組み合わせ、その上に巨大な一石の石材を据えて地輪を構成している。13この大きさに見合う石材が見つからなかったからと言われている。しかし、元の石材の大きさは、地輪と火輪にさほど大差はないように見える。どこから石材を調達したのかということもあるだろうが、宇治川と木津川、桂川が合流するこの場所を考慮すると、水運を前提に考えるのが合理的ではないだろうか。少し離れるが、山城町の泉橋寺では、同じ頃である鎌倉時代後半に5mを超える巨大な地蔵の石材を運搬していることを考慮すると、大きい石材をまったく入手できなかった可能性は高くないように思える。むしろ運搬上の都合と考える方が、より合理的ではないだろうか。五輪塔の製作工程、つまり、大まかな石材を切り出してからこの場所に搬入し整形したのか、別の場所で整形された各輪をここに運んで組み立てたのかということも考えておかなければいけないが、最も質量(or重量)が大きい地輪を物理的に運搬できなかったため石材を分割せざるをえなかったという可能性は高いと思う。さらに、なぜ地輪が一石でないのかについて、もうひとつの可能性として、構造上の意図からあえて地輪を一石にしていないのではないのかと推定してみたい。つまり地輪下に何らかの埋納施設を設け、そこに追納する場合を想定した構造であったのではないかということである。台座は明らかに組み合せ式であり、地輪下の台座中央にスペースを作り得る構造である。切石基壇も同様に、井桁に組んだとすれば、中央にスペースを作り得る。地盤を固め、あるいは繰込石などで補強し地面に埋納坑を掘ってあるかもしれない。いずれにせよ、このスペースを反復継続して利用するために地輪の下部にあえて可動式の小さい石材をはめ込んだ可能性は考えられないだろうか。この小さい石材を外しても五輪塔全体の重心は崩れない。これを脱着して埋納スペースの利用を可能にしたと考えることも可能ではないだろうか。もっとも、誰もが簡単に脱着できては管理上望ましくない。しかし、これだけの大きさの五輪塔である。小さい石材といっても少人数ではそうそう動かせないサイズである。したがってそうした管理面からの心配は少ないだろう。とにかく、近世の大名墓などを除けば、日本最大の五輪塔で、保存状態もよく、力強さと優美さを兼ね備えた、鎌倉時代に遡る優品で、まさに重要文化財にふさわしい。

 

写真:上左、上右…全景、中右:切石基壇と反花座、下左:地輪上中央に小さく見えるのはタバコの箱です。巨大さが伝わりますか?ウーンちょっと分かりにくいですね…。とにかくでかいです。ハイ。

参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』 21ページ

   川勝政太郎 『京都の石造美術』 140ページ

   竹村俊則・加登藤信 『京の石造美術めぐり』 207~209ページ

  (財)元興寺文化財研究所 『五輪塔の研究』 平成4年度調査概要報告


奈良県 桜井市出雲 十二柱神社五輪塔

2008-02-12 01:12:03 | 五輪塔

奈良県 桜井市出雲 十二柱神社五輪塔

国道165号から北側に出雲の集落内を通る旧道に入ると北側の山の手に十二柱神社がある。石段の右手に大きい五輪塔が建つ。03相撲の祖で埴輪の発明者としても有名な野見宿弥の供養塔との伝承があり、元は南方300mの野見宿弥の塚といわれた場所(塚の本)にあったものを明治20年(一説に明治16年)にここに移したらしい。野見宿弥は垂仁朝の人で、実在したとすれば古墳時代初め頃になる。出雲という地名からの付会伝承であろう。高さ2.8m余のきめの粗い花崗岩製で表面の風化はやや進行している。直接地面に据えられ基壇や台座は見られない。地輪は低めでやや下方が広く、水輪は球形で少し側面が欠損しているせいか背が高く見え、全体のバランスから見ればやや小さめである。火輪は軒が異常に厚く、軒反には隅増しが顕著でなく、全体に真反りに近い緩やかな曲線を描く。火輪の隅降棟の屋だるみは緩い。空風輪は大きく高い。風輪の椀形、空輪の宝珠形ともにスムーズな曲線を描き硬い感じは受けない。各輪四方に薬研彫の種子があるが、通常の四門ではなく、清水俊明氏によれば地輪にはヂリ(持国天)、ビ(増長天)、ビー(広目天)、バイ(多聞天)の四天王、水輪は金剛界四仏、火輪はバイ(薬師如来)、バク(釈迦如来)、キャ(十一面観音菩薩)、カ(地蔵菩薩)、風輪はカーン(不動明王)、ユ(弥勒菩薩(如来))、マン(文殊菩薩)、ボロン(一字金輪仏頂)、空輪は一字欠損しバン(金剛界大日如来)、ア(胎蔵界大日如来)、サ(観音菩薩)となっているとのこと。このような複雑な種子の配列例は他にみることができず極めて異色といえる。規模が大きく、全体のフォルム、種子などのディテイルも個性的で定型化した鎌倉後期仕様のものとは異なった特長がある。ぶ厚い軒口などは剛健であるが、水輪の横張が足りないので安定感には欠け、大きく高い空風輪とあいまって全体に背伸びしたたように見える。造立時期の特定は難しいが、下広がりの地輪と横張の少ない水輪、反りの緩やかな異様に厚い火輪の軒はいちおう古い特徴で、鎌倉後期仕様の様式が普及する以前のものと見たい。傍らの説明板によると鎌倉初期とあるが、それはちょっと古すぎると思う。鎌倉中期末ないし後期初めごろのものではないだろうか。また、移建時に地輪内に一字一石経を納めた穴があったと伝え、今も地輪内にそのままにしてあるという。納経による作善・供養と思われ、五輪塔の造立趣旨を考える上で興味深い。

参考:清水俊明 『奈良県史』第7巻 石造美術 231~232ページ

なお、大和盆地を挟んだ西側の当麻には宿弥との相撲で敗れた「当麻蹴速之塚」の伝承を持つ大きい五輪塔があり、こちらも訪ねられるとおもしろいでしょう。


滋賀県 長浜市上野町 素盞鳴神社宝篋印塔及び五輪塔

2007-05-08 08:05:16 | 五輪塔

滋賀県 長浜市上野町 素盞鳴神社宝篋印塔及び五輪塔

小堀遠州ゆかりの孤蓬庵へ向かう道すがら、集落の西のはずれに素盞鳴神社がある。長い参道を抜け左手に社殿、右手に池と井戸があり、井戸の裏手、東側の竹薮の前の小さい空地に五輪塔と宝篋印塔が東西に並んで立っている。12_1 宝篋印塔は切石を井桁に組んだ上に2枚の板状の切石を据えた二重の基壇上に立ち、おそらく基壇に埋納空間があると推定される。基礎は側面四方ともに輪郭を深めに彫り沈めた中に格狭間を配する。格狭間内は素面。上は反花式で、花弁の傾斜は緩く抑揚感がなく、べちゃっとした感じで、左右隅弁の間に3枚弁を配し各弁間に小弁の先端をのぞかせている。塔身受座も低く、風化により角がとれて反花座と一体化したかのように見える。塔身は金剛界四仏の種子を月輪内に薬研彫する。笠は上6段、下2段で、軒と区別した3弧輪郭の隅飾は直立に近く大きい。輪郭内は素面。相輪は2輪目と9輪目の上の2箇所で折れているが補修されている。伏鉢はやや円筒形に近いもので、請花は下複弁、上単弁、宝珠と上請花のくびれはやや大きい。高さ約195㎝。銘は確認できないが鎌倉後期後半から末期のものと見て大過ないだろう。一方の五輪塔は2枚の板状切石を並べた基壇上に立ち、向かって右側の切石の接合面と地輪との間に火葬骨を投入できる隙間がある。各輪素面で銘も確認できない。地輪は低すぎず高すぎず、水輪は重心をやや上において裾のすぼまりが目立つ。火輪の軒は厚く隅で力強い反りを見せる。火輪頂部は狭く屋だるみの曲線がやや大きい。風輪は少し平らで空輪との接合面はよくくびれ、空輪の重心は高めで先端の小さい尖りまでよく残っている。花崗岩製。火輪軒の一端が大きく欠け地輪上に置いてある。散逸しないように心がけて欲しい。高さ約155cm。火輪は鎌倉スタイルをよくとどめるものの空風輪や水輪の形状はやや新しい要素を含み、宝篋印塔よりは一世代新しいものとみる。14世紀半ばから後半にかけてのものと推定したい。博学諸彦のご叱正を請う。苔むした宝篋印塔と五輪塔が並んで静かに佇み、周囲の緑に溶け込んで、藪椿を背景にして何ともいえない独特の空間を演出している。石造美術のすばらしさをしみじみと感じることができた探訪であった。

参考

川勝政太郎 『歴史と文化 近江』 201~202ページ

同 「近江宝篋印塔の進展(三)」『史迹と美術』360号


奈良県 奈良市小倉町(旧山辺郡都祁村小倉)小倉墓地五輪塔・宝塔

2007-03-20 00:32:13 | 五輪塔

奈良県 奈良市小倉町(旧山辺郡都祁村小倉)小倉墓地五輪塔・宝塔

名阪国道小倉インターの南方、小倉集落の西方の丘陵上に地域の墓地がある。小倉から室生染田方面に抜ける県道をやや南下し集落のはずれにさしかかると、右手の田んぼを隔てた山裾に六地蔵が見える。ここが小倉墓地の入口である。通常の六地蔵の外に、岩盤に六地蔵を直接刻み込んでいるものが見られる。岩盤の方が古く、Photo_11Photo_12Photo_15室町時代末期から江戸時代のごく初期ごろのものと思われる。山手の道を進むと斜面をテラス状に形成した墓地が次々に現れる。木々に覆われ、陰になって道路からは分かりにくいが、丘陵の先端部分全体が墓地になっている。近現代の墓標に交じ って中世に遡る五輪塔や古い石仏が多数見られる。小型の四石五輪塔、一石五輪塔、板状五輪塔(写真上右)、半裁五輪塔(写真上中)、舟形背光五輪(写真上左)、箱仏など室町時代から江戸時代初めの石塔Photo_10のオンパレードで、中世墓に近現代の墓がオーバーラップしているようである。墓地の最高所は平坦地になっており、中央に立派な五輪塔がぽつんと立っている。板状の切石2枚を並べ敷いただけで反花台座は珍しくみられない。何らかの事情で失われたのであろうか。地輪は上部の隅付近の一端を欠損し、火輪の軒下を少し欠いているが、全体の保存状態は悪くない。空風輪の曲線に直線的なところはなく、空輪の宝珠の重心はやや下に置くが球形に近く、風輪と接合するくびれ部分はやや細い。火輪の軒は厚く、力強く隅で反り上がる。水輪は大きめで、曲線はスムーズでやや重心を上におく。地輪はやや背が高い。各部とも無地。高さ165cm、花崗岩製。空風輪の形状や火輪の軒などから14世紀半ばごろのもの推定できる。墓地の惣供養塔であろう。墓地頂部の平坦地の片隅、五輪塔から10mばかり離れた場所に、小型01_3 の宝塔がある。高さ135cm、花崗岩製。平らな自然石の上に背の高い4弁複弁反花座を置く。幅に比して背の高い基礎は4面に薄めの輪郭を巻き、かなり退化した形式の格狭間を3面に入れ、1面には輪郭内素面で、ここに銘文があったと思われるが摩滅している。塔身は首部に比べ軸部は少々寸詰まりで、重心をやや上に置き、下端はまっすぐ基礎に続くのではなく曲面にしている。塔身には匂欄、扉型などの装飾はない素面だが、一方向を大きく長方形に彫りくぼめ、中に合掌する筒袖袴姿の人物と思われる立像2体が稚拙な表現で半肉彫りされている。笠の軒厚く、隅の反りは割合に力強い。頂部には薄く露盤を削りだし、四柱には降棟を突帯で表現し、底面には薄い垂木型と隅木を彫り出している。相輪は伏鉢、複弁反花の請花、九輪の3段目まで残るが、その先は欠損している。枘の大きさが一致しないが違和感はない。宝塔は、釈迦が霊鷲山で説法した時、地中から宝塔が出現し、多宝如来が釈迦を讃えて、塔内に招き入れ半座を分かって釈迦・多宝の2仏が並座したという「法華経見宝塔品」に端を発した天02_3台系教理の所産とされ、釈迦・多宝の2仏を塔身に表すのが本格的で、扉型や鳥居型だけの場合でも塔身内の2仏を意識しているのが通常である。この塔身軸部の俗形人物は、両親の供養か自身夫婦の逆修を意図したものと思われ、宝塔本来の意義は失われているがたいへん珍しい意匠といえる。表面の風化が激しく、基礎の輪郭や格狭間の彫りもごく浅い。山添峰寺の六所神社のものに比べるといっそう垢抜けない感じで、同じような室町期の作風だが、小倉墓地の方がより時期が下がると考えるがどうだろうか。これだけ退化が進んでも笠裏に垂木型に加えわざわざ隅木を刻んでいるのは、さすがに木造建築風に細部にこだわる都祁来迎寺塔や吉野鳳閣寺塔につながる大和伝統の宝塔造形といえないだろうか。

参考 清水俊明 『奈良県史』第7巻石造美術 357~358ページ


奈良県 葛城市當麻 当麻北墓五輪塔ほか

2007-03-03 01:04:12 | 五輪塔

奈良県 葛城市當麻 当麻北墓五輪塔ほか

当麻寺の北門から北に出て里道に沿って少し行くと、谷をひとつ隔てた尾根一面が共同墓地となっているのが目に入る。尾根は西の二上山から東に向かって伸びており、尾根の先端部にあたる小高い場所に、近現代の墓碑に囲まれ一際異彩を放つ雄偉な五輪塔が立っている。近くで見るとかなり大きい五輪塔で、通常の五輪塔とは明らかに様相が異り、圧倒的な存在感がある。切石加工した基壇上に低い地輪を据Dscf7955 え、水輪は背が高く、重心の高い独特の形状は壷形というよりも棗形ないしリンゴの実のような形をしている。地輪との接面は広く、火輪との接面は小さい。火輪は全体に低く、屋根のたるみは緩く、軒は伸びやかで緩く反り、軒先は厚い。火輪の頂部は比較的小さく、空風輪も風化が激しいが、低い風輪と重心の低い宝珠形の空輪との間に頸を形作る。風輪の半分ほどは表面が滑らかに仕上げられた白っぽいセメントか樹脂状のもので上手に補修されている。火輪から上は風化摩滅が激しく消えかかっているが、地輪と水輪には四方に深く薬研彫された種子が目立つ。種子は五輪塔四門のものである。全体的に凝灰岩製の割にはよく残っている。紀年銘は確認できないため、造立時期は不明だが、雄渾な種子、頸部を設けた空風輪と重心の低い空輪の形状、花崗岩が普及する以前に多用された凝灰岩という石材を採用する点など五輪塔のスタイルが定型化する以前の古風を伝え、悠々たるおおらかさは平安後期の様式を示すものとされる。古い惣墓の中心的な五輪塔であったと思われる。塔高約245cm。すぐ南東の尾根麓には中将姫の墓塔との伝承を持つ花崗岩製13重層塔と凝灰岩製の層塔の残欠が立つ一画がある。十三重層塔は12層以上を失い、別の五輪塔火輪が載せられている。四面無地の基礎は低く、塔身は四面とも2重の輪郭内に舟形光背を彫りくぼめ蓮華座に座す四方仏をDscf7964 半肉彫する。像容表現は洗練されている。各笠は底面に一重の垂木を刻み、二層目の東側軸部中央上辺に10cmほどの穴がある。この軸部内にスペースを設け何らかの納入品を格納したものと考えられる。軒反に力強さはやや弱い。高さ約3m余、一方、凝灰岩製の方は現高約2m、塔身と3層分を残すのみで、風化が進みやや破損もみられる。花崗岩の五輪塔の空風輪を頂上に載せ間に合わせている。これも凝灰岩製の割にはよく原型をとどめている方だと思う。基礎は花崗岩の自然石を代用している。塔身はやや背が高く、雄渾な金剛界四仏の種子を大きく薬研彫する。月輪や蓮華座は見られない。笠は軒の出が小さく、軒は非常に厚く緩い真反を見せ底面は垂木型を入れず素面とする。ひとつの場所で鎌倉様式が定型化した層塔と定型化前の層塔を視覚的に対比できるので、その作風や雰囲気の違いを体感できおもしろい。

参考

川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』 161ページ

近畿日本鉄道・近畿文化会編 大和路新書4『當麻』 43~44ページ


滋賀県 湖南市(旧甲賀郡甲西町)岩根 常永寺五輪塔

2007-02-07 00:49:54 | 五輪塔

滋賀県 湖南市(旧甲賀郡甲西町)岩根 常永寺五輪塔

旧甲西町岩根は北東部を中心に開発が進んでいるが、南西部は山裾に広がる農村のDscf7827 のどかさを残している。常永寺は旧来からの集落部分の東寄りにある。山門を入ると右手、境内東の庭池のほとりに立派な五輪塔があるのがすぐわかる。元は左手の墓地にあったのを移建したという(※1)。2重の切石基壇上に立ち、反花座はない。花崗岩製で塔高188cm。上段の切石基壇は、長短4つの切石からなり、平板な長い切石の広い面を上下にして約30cm弱間隔で平行に並べ、上を跨ぐように五輪塔の地輪を据え、前後の隙間を短い切石でふさぐ形に並べて地輪下には空間が設けられる構造で、北側地輪下の中央付近に接する切石上面に5cm程の半円形の穴が穿たれており、地輪下のスペースへの埋納(火葬骨を落とし込んだ?)を意図した基壇構造であることがわかる(右写真参照)。こうした例はしばしば目にする。五輪塔本体は各部に四門種子をやや小さい文字で陰刻する。空輪は西側背面が1/4ほど縦に欠けていDscf7825 る以外遺存状態は良好。地輪は若干背が高めながら、下部が上端より少し広いため安定感がある。西側背面の「ア」種子の左右に「康永4年(1345年)乙酉二月七日/一結衆敬白」の刻銘があるという(※2)が肉眼ではハッキリ読みきれない。水輪の曲線は美しく、重心はやや上にあるが裾窄まりの印象は受けない。火輪は軒厚く隅の反転はほどほどで力強さはあまり感じない。空風輪のくびれがやや目に付き、空輪宝珠形先端の突起が尖りぎみであるが、曲線はスムーズ。各部のバランスもよく、整美な印象の実に好感が持てる五輪塔である。各部の特徴は南北朝時代前期の傾向をよく表し、塔自体の美しさや良好な遺存状態に加え、紀年銘があることは貴重。市指定文化財で案内看板が傍らに立つ。松の木や銅像に接していて、ちょっと窮屈そうに見える。下段切石基壇の左右に大きめの花立をコンクリートで固定してあるのは、鑑賞する上で視界が遮られるし、基壇も含めた全体構造を保護するという観点からもあまり好ましいとは言えないが、信仰の対象である以上致し方ない。

参考

※1 池内順一郎『近江の石造遺品』(下)409~410ページ及び368ページの図

※2 川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』 122ページ


奈良県 山辺郡山添村大塩 大塩墓地宝篋印塔及び五輪塔

2007-01-30 23:45:25 | 五輪塔

奈良県 山辺郡山添村大塩 大塩墓地宝篋印塔及び五輪塔

名阪国道山添インターの西方約2Km、大塩は東山内の静かな山村集落である。県道奈良名張線を南に折れ200mほど行くと左手に会所があり、その裏手に墓地が広がっている。会所はおそらく寺院の跡と思われる。会所建物向かって左手の斜面をコンクリートで雛壇状に整形し、無縁石仏や石塔類が並んでいる。その最上Dscf1020段、左端近くの楓の木の下に立派な宝篋印塔がある。複弁反花座の上に建ち、基礎上2段、笠下2段、笠上6段、基礎は四面とも無地で銘は見当たらない。塔身はやや背が高く、四面に大きく舟形に彫りくぼめ如来坐像を半肉彫する。蓮華座はない。塔身は角が取れて面取をしているように見えるが、風化のせいであろう。笠の隅飾は二弧輪郭付で軒と区別し、若干外反しつつ立ち上がる。2箇所は先端を少し欠くが4箇所ともほぼ残っている。注目すべきは、欠損のない相輪に四方の水煙を作っている点である。伏鉢、反花、九輪、水煙、竜車、宝珠で構成され、水煙がある分、九輪の各輪の間隔が狭い。総高185cm、基礎幅55cm、高さ49cm、塔身は幅、高さともに31cm、笠の幅51.5cm、相輪高さ59cm(※)。各部の残存状態は良好だが、表面の風化はかなり進んでいる。花崗岩製。全体的に背が高い印象を受ける。笠の特徴から南北朝頃の造立と推定する。反花座は基礎よりも小さく不釣合いで別物と思われる。各部完存しているように見えるが、笠と基礎に比較して塔身が心なしか大き過ぎ、相輪に水煙が付く例は層塔に多い。すぐそばに層塔の基礎と思しきものと笠石の残欠が2枚ほどあることから、寄せ集めである可能性を疑Dscf1019ってよいように思う。層塔残欠の笠石は小さく、薄めの軒は反りも弱く、室町時代に降るものと推定する。

同じ雛壇最上段の右端付近には、5尺の立派な五輪塔がある。花崗岩製。各部揃って、なかなか見ごたえのある優品である。空風輪がやや大きい。複弁4枚の反花座の背が非常に高く、下すぼまりの水輪は上下逆に積まれている。火輪の軒反はかなり隅寄りで、軒下の反りはやや弱い。各部の表現に硬直化傾向がみられ、清水俊明氏のおっしゃるとおり南北朝末期から室町初頭ごろの墓地の惣供養塔と思われる。高さ156cm(※)。

参考

※ 清水俊明『奈良県史』第7巻 石造美術 332~333ページ


滋賀県 野洲市三上 西養寺宝篋印塔

2007-01-17 22:15:24 | 五輪塔

滋賀県 野洲市三上 西養寺宝篋印塔

02御上神社の北西、三上の小中小路集落の中央に西養寺がある。無住のように見受けられる小寺院だが、境内の手入れは行き届いている。境内南隅の鐘楼を右手に見て山門をくぐると本堂向かって左手に無縁の石塔石仏類が雛壇式に高く積み重ねられている。最上段中央のやや大きい五輪塔を中心に、小型の宝篋印塔や多数の一石五輪塔があり、一石五輪塔のほとんどは、小型で白っぽくキメの粗い花崗岩の粗製のもので、近江では広く見られるタイプのものであるが、中段中央付近に、調整の丁寧な、一見すると四石組み合わせ式の五輪塔と見まがう程に整った一石五輪塔が2点並んでおり、注目される。花崗岩製と見られ、銘文があるようにも見えるが、雛壇の下からは確認できない。室町後期でもやや古い頃のものであろうか?

15_2山門の西側は細長い墓地になっており、南西隅の生垣に接して置いてある巨大な宝篋印塔の上部が一際眼を引く。笠と相輪のみで、塔身、基礎は見られないが、高さは目測で2mはある。笠の軒幅は1辺が約95cmもあり、復元すれば10尺余もあろうかという巨塔で、昭和40年代に広くこの地方の石造美術を調査された故・田岡香逸氏の昭和49年頃の知見によれば、近江最大の宝篋印塔(※)とされているものである。花崗岩製。笠下は埋まっているが、2段までは確認できる。笠上は7段で、5段の上にさらに2段を別石で載せている点はあまり例がない。規模が大きすぎて製作便宜上石材を分割したのだろうか。別石部の接合面下部に納入孔が設けられている可能性もありうる。隅飾は1個が欠損しているが、軒と区別して直線的にやや外反する三弧輪郭付、輪郭内には蓮華座上に月輪を陽刻し、その中に種子を陰刻している。種子ははっきり確認していないが、各面同一のものではなく、ウーン、バクらしいものがあるが不詳。相輪は珍しく完存している。宝珠、上下請花、伏鉢の曲線はスムーズで、九輪は凸凹をはっきり彫り出し、請花は風化により確認できないが、上が単弁、下が複弁と見られる。笠は全体として幅広で安定感があり、隅飾内の蓮座の蓮弁表現もしっかりし、相輪宝珠の完好な形状などを考慮すると、所謂典型的な鎌倉後期様式が完成期を迎えた最盛期ごろのものと考えられる。規模が大きく隅飾3弧で、蓮華座を伴う月輪内に種子を配する点や笠上を7段とする点などの特長を鑑み、細かい相違点はあるものの嘉元2年(1304年)銘の日野町十禅師の比都佐神社塔や正安3年(1301年)銘の近江八幡市上田町篠田神社塔などが参考になると思われ、具体的には14世紀初頭から前半のものと推定したい。

残存するのは笠以上のみだが隅飾1箇所を欠く以外は保存状態良好。規模が大きいわりに間延びしたようなところはなく、形状もよく整い装飾意匠も行き届いた優品で、基礎や塔身がないことは誠に遺憾である。

参考

※ 田岡香逸 『近江の石造美術3』 民俗文化研究会 72頁~73頁