石造美術紀行

石造美術の探訪記

滋賀県 蒲生郡日野町村井 杜家墓所三尊板碑

2013-06-23 11:00:27 | 板碑

滋賀県 蒲生郡日野町村井 杜家墓所三尊板碑
馬見岡綿向神社の北東方約400m程のところにある地域の共同墓地の一画に、代々綿向神社の宮司を務めた社(やしろ)家の墓所といわれている埋墓(所謂さんまい)があり、01その奥まった場所、丘陵尾根の麓に立派な板碑がひっそりと立っている。02花崗岩製、米石と呼ばれる地元産のキメの細かい良質の花崗岩とのことである。正面を西に向け、現状地上高約220cm、現状基底部の幅は約40cm、奥行きは約38cmを測る。額部の幅は約30.5cmと下端付近に比べ上端近くをかなり細く薄くしているので、直立安定性を得るとともに実際以上に背を高く見せる効果がある。先端を山形に整形し、二段切り込みは深くしてその下の額部は薄い。平滑に仕上げた碑面の上端近く、中央に三尊の種子を薬研彫りしている。中央は阿弥陀如来の種子「キリーク」、その下方、向かって左に配された梵字は「ボロン」。これは一字金輪仏頂尊の種子であろうか。向かって右下の「カ」は地蔵菩薩の種子と考えられる。さらに三尊種子の下には5行の陰刻銘がある。彫りが浅く文字の線も細いが、光線の加減で何とか肉眼でも確認できる。中央に「右率都婆志者為」、向かって右端に「二親幽霊並法界」、中央右に「衆生成佛得道也」、中央左に「延慶三年十月十六日」、左端に「願主内記重吉」とある。03左右どちらかの端の行から読むのではなく、中央⇒右端⇒右中⇒左中⇒左端の順に読んで文意が通る07。つまり「右率都婆志者為、二親幽霊並法界衆生成佛得道也、延慶三年(1310年)十月十六日、願主内記重吉」となる。社氏の先祖の一人と思われる内記重吉という人物が、造塔供養の功徳により亡くなった両親の霊魂並びに法界の衆生が輪廻を脱し解脱の境地を開く、あるいは極楽往生を遂げることを祈念したものであることが知られる。平滑に仕上げられた正面に比して、背面の彫成は粗く、側面から正面にいくにしたがって彫成はより丁寧になる。正面も本尊種子部分から刻銘部分は特に丁寧に細かく叩いて仕上げてあるように見える。花崗岩という石材の性質上、節理の関係で板状に整形しやすい緑泥片岩のように扁平に作ることができないため、ある程度の厚みを持たさざるをえないわけだが、本例は正面観をいかにも板状に見せることに成功していると言ってよい。こうした意匠表現、技術は見事というほかない。保存状態は極めて良好で、地衣類の付着もほとんどなく良質の石材とあいまって正面観は非常にシャープで美しい。貴重な造立紀年銘と合わせ近江では傑出した板碑として早くから世に知られた優品である。石造美術の宝庫である近江では、宝篋印塔や宝塔に比べると板碑は必ずしもメジャーな存在ではないが、この板碑は近畿地方でも屈指の板碑として数えられよう。
 
参考:川勝政太郎 新装版『日本石造美術辞典』
   日野町史編纂室編『近江日野の歴史』第5巻 文化財編
   滋賀県教育委員会編『滋賀県石造建造物調査報告書』
 
夕暮れ時に一人で訪ねるにはちょっと薄気味悪い場所にありますが、立ち去り難い気分にさせてくれる素晴らしい板碑です。いつまでもこの場所にあって泉下の代々社家の人々と我々法界の衆生の後生安穏を見守っていてほしいと思います。なお、最近吉川弘文館から出版された『日本石造物辞典』からは漏れています。何故だ!?


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