会津では春彼岸になると太夫・雄・雌の三体の獅子が笛と太鼓の音色に合わせ古式ゆかしい舞を披露しながら街中を練り歩きます。
会津彼岸獅子は天喜四年(1056年)の「前九年の役」で源義家が安倍貞任を征討の際、士卒の戦死者を弔い士気を鼓舞するため従軍の兵卒に笛太鼓の勇壮な調子に合わせて舞をさせたのが起源とされています。
今から約三百年前、会津一円に悪疫が流行したため主な社寺に獅子舞を奉納し平癒を祈願したのが春彼岸の頃だったので彼岸獅子と呼ばれるようになりました。
寛永二十年(1643年)に保科(ほしな)正之公が会津藩主として若松城に入城した際に獅子を先頭に立て士気を鼓舞したそうです。
また、戊辰の役で日光口総督「山川大蔵」が小松の獅子団と共に敵中を威風堂々と行進して帰城した話は有名です。
現在会津彼岸獅子を継承している獅子団は発祥とされる下柴を始め8団体のみとなっており、会津若松市内には天寧(てんねい)・小松・本滝沢の3団体が現存しています。
春彼岸の中日である春分の日の午前中に鶴ヶ城本丸内で行われた天寧獅子団の獅子舞公演を観に行って来ました。
公演では全部で24曲ある獅子舞の曲の内「庭入り」・「山おろし」・「弊舞(へいまい)」などの5曲ほどの舞が約30分披露されました。
天寧獅子団で弊舞小僧の役を務めるのは大人の方なんですが、派手な衣装を来てひょっとこの面をかぶりコミカルに演じていました。
最後の方で行われた太夫獅子による弓潜り(ゆみくぐり)の瞬間を激写したかったのですが、余りにも早過ぎて出来ませんでした。
今から約三百年前、会津一円に悪疫が流行したため主な社寺に獅子舞を奉納し平癒を祈願したのが春彼岸の頃だったので彼岸獅子と呼ばれるようになりました。
寛永二十年(1643年)に保科(ほしな)正之公が会津藩主として若松城に入城した際に獅子を先頭に立て士気を鼓舞したそうです。
また、戊辰の役で日光口総督「山川大蔵」が小松の獅子団と共に敵中を威風堂々と行進して帰城した話は有名です。
現在会津彼岸獅子を継承している獅子団は発祥とされる下柴を始め8団体のみとなっており、会津若松市内には天寧(てんねい)・小松・本滝沢の3団体が現存しています。
春彼岸の中日である春分の日の午前中に鶴ヶ城本丸内で行われた天寧獅子団の獅子舞公演を観に行って来ました。
公演では全部で24曲ある獅子舞の曲の内「庭入り」・「山おろし」・「弊舞(へいまい)」などの5曲ほどの舞が約30分披露されました。
天寧獅子団で弊舞小僧の役を務めるのは大人の方なんですが、派手な衣装を来てひょっとこの面をかぶりコミカルに演じていました。
最後の方で行われた太夫獅子による弓潜り(ゆみくぐり)の瞬間を激写したかったのですが、余りにも早過ぎて出来ませんでした。
さて・・・ここで、この公演の舞台となった鶴ヶ城の見所を三つほどご紹介したいと思います。
一つ目は、鶴ヶ城は日本で唯一の赤瓦をまとった天守閣であることです。
昭和40年9月に復元された当時の天守閣は黒瓦だったのですが、平成23年になって幕末当時の赤瓦に葺き替えられました。
二つ目は『荒城の月』の作詞者土井晩翠氏直筆による歌詞が記された「荒城の月碑」があることです。
土井晩翠氏は会津の鶴ヶ城と仙台の青葉城をモチーフにしてこの名曲を作詞されたそうです。
碑の設置場所は茶室「麟閣」の南側です。
三つめは石垣の中にハート型の石が積まれている場所があることです。
この石は石積みを担当した近江坂本の穴太(あのう)衆のシンボルマークで、同じ型の石が他の都市の城にもあるそうです。
皆さんも観光で鶴ヶ城を訪れる機会がありましたら、是非このハート型の石を探してみてください。
もしかしたら、幸運に恵まれるかも知れませんよ。
一つ目は、鶴ヶ城は日本で唯一の赤瓦をまとった天守閣であることです。
昭和40年9月に復元された当時の天守閣は黒瓦だったのですが、平成23年になって幕末当時の赤瓦に葺き替えられました。
二つ目は『荒城の月』の作詞者土井晩翠氏直筆による歌詞が記された「荒城の月碑」があることです。
土井晩翠氏は会津の鶴ヶ城と仙台の青葉城をモチーフにしてこの名曲を作詞されたそうです。
碑の設置場所は茶室「麟閣」の南側です。
三つめは石垣の中にハート型の石が積まれている場所があることです。
この石は石積みを担当した近江坂本の穴太(あのう)衆のシンボルマークで、同じ型の石が他の都市の城にもあるそうです。
皆さんも観光で鶴ヶ城を訪れる機会がありましたら、是非このハート型の石を探してみてください。
もしかしたら、幸運に恵まれるかも知れませんよ。