今日は、澤嶋真紀子さんを偲ぶ会(ご家族の主催)の日でした。午後、澤嶋さんの事務所に、おともだち、ご近所の方、さまざまな市民活動のお仲間、北摂の市民派議員などが集われ、在りし日の澤嶋さんの写真とともに、思い出を語っておられました。たくさんのお友だちがおられる方でした。「素で生きてはったから」だと思います。
わたしは、平成元年、1989年、メゾン水無瀬に移り住み、まもなく仕事を辞めて地域に目を向けはじめたころ、当時まだ珍しかった省農薬・無農薬に挑戦する三重・輪中の専業農家から、直接お米を購入するシステムを構築するグループ(平野かおるさんとご家族が中心的存在)に誘っていただき、親しくなりました。
議員になってともに活動した2年間、澤嶋さんにとっては、それが闘病期間となりました。治療に向かっての姿勢、議会活動の継続の意思、なにもかも驚くほどに強かった・・・でも、ほんとうは、50歳という年齢ではじまった闘病生活を受けいれるには、想像を絶する無念と哀しみがあったはず。そっと見守ることしかできませんでした。公表されていませんでしたが、乳癌でした。
ご冥福をお祈りします。
ありがとう。さようなら。
わたしは、平成元年、1989年、メゾン水無瀬に移り住み、まもなく仕事を辞めて地域に目を向けはじめたころ、当時まだ珍しかった省農薬・無農薬に挑戦する三重・輪中の専業農家から、直接お米を購入するシステムを構築するグループ(平野かおるさんとご家族が中心的存在)に誘っていただき、親しくなりました。
議員になってともに活動した2年間、澤嶋さんにとっては、それが闘病期間となりました。治療に向かっての姿勢、議会活動の継続の意思、なにもかも驚くほどに強かった・・・でも、ほんとうは、50歳という年齢ではじまった闘病生活を受けいれるには、想像を絶する無念と哀しみがあったはず。そっと見守ることしかできませんでした。公表されていませんでしたが、乳癌でした。
ご冥福をお祈りします。
ありがとう。さようなら。