ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

わがヨーロッパ紀行 … ドナウ川の旅・追記

2023年01月29日 | 西欧紀行…ドナウ川の旅

(ロードス島の聖ニコラス要塞の満月)

 ダイヤモンド・プリンス号事件が起きたのが2020年の2月。その2か月後に最初の緊急事態宣言が出た。

 突然、ヨーロッパは遠くなり、それから丸3年がたった。

 さらに2022年にはロシアのウクライナ侵攻。仮にコロナが完全に収束しても、関空からシベリア上空を飛ぶヨーロッパ直行便は、もうない。

 私のような高齢の人間には、コロナが5類になろうと海外旅行はためらわれる。

 それに、中東のドバイの空港ロビーで、若いバックパッカーのような一夜を明かす旅は、私の年齢では無理である。

      ★

<夢はいつも返っていった … エーゲ海のロードス島>

 最後にヨーロッパへ行ったのは、コロナ禍の前年の2019年5月。塩野七海の『ロードス島攻防記』に触発され、エーゲ海の東の果てに浮かぶロードス島まで遥々と行った。

(この島で10万のオスマン帝国軍を迎え撃った聖ヨハネ騎士団)

 その旅から帰った後、見るべきものはおおよそ見たという思いもあり、自分の年齢・体力のことも自ら自覚されるようになって、そろそろ私の旅も終わりにしなければ、という気もちをもち始めた。あと1回、それを最後に、私のヨーロッパ旅行を終わりにしよう。何事にも潮時というものがある。

 ところが、その最後の1回の行先もまだ決めかねていたとき、コロナ禍に入ってしまった。仕事はとっくにリタイアした身であるから、家に閉じこもるだけの日々が続いた。

 そうした日々 …… 最後に行ったエーゲ海の海の青と、微風吹くロードス島のことがなつかしく思い出されるようになっていった。

 (ロードスの市街)

 (海に臨むリンドスの遺跡)

 滞在中、夕方になると、ロードス島で3代続く家族経営のレストラン「ママ・ソフィア」で食事をした。その3代目の当主は日本に留学したことがあり、流暢に日本語を話した。

 最後の夕べ、お別れの挨拶をした。「明日はアテネに戻り、明後日の飛行機で日本に帰ります。ヨーロッパをあちこち旅してきましたが、こんなに美味しかった店はありません。私はもう年ですから、ロードス島を再訪することはないでしょう。お元気でこれからもお店を繁盛させていってください」。すると、彼は「また、きっとお元気なお顔を見せてください。お待ちしていますから」と言って、日本人よりも美しいお辞儀をして見送ってくれた。私には、「客」に対するというより、一家の年長者に対するような優しさと敬愛の心が感じられた。

 海岸沿いをホテルへ向かって帰る途中、微風吹くこの島へ、そして、「ママ・ソフィア」へ、もう一度来られたらいいなあと、心から思った。エーゲ海の日の暮れた空に満月が出ていた。

 伴侶の方は日本留学中に出会った日本人女性。観光しかないエーゲ海の島で、あの一家は、コロナ禍をどう凌いだろう??

 もう一度、あの海へ、そして、あの島へ行きたいと思うようになった。

(微風吹く木陰のカフェテラス)

 もうヨーロッパには行けないだろう。だが、「最後にもう1回」という考えはやめようと思うようになった。「最後に」、は良くない。いつも、また行こうと思い続けるべきだ。それが、生きるということだ。

      ★

<サン・ヴィセンテ岬の出会い>

 もう1つ、心に残る旅がある。ブログでは「ユーラシア大陸の最西端ポルトガルへの旅」(2016年9~10月)として書いている。リスボンから列車に乗って、北はポルト、南はポルトガルの最西南端のサグレス岬、そしてそこから6キロ先のサン・ヴィセント岬へ行った。

 動機は司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズの『南蛮のみちⅡ』。エンリケ王子に心ひかれた旅だった。

 さらにもう1冊。沢木耕太郎の『深夜特急』。NHKでドラマ化され、主人公を若い日の大沢たかおが好演していた。

 サグレス岬のホテルに荷物を置き、バス停でサン・ヴィセンテ岬へ行く1日2本しかないバスを待っていた。バス停の近くにエンリケ航海王子の彫像が立っていた。大西洋の彼方を指さしている。サグレス岬には、エンリケ王子がつくった航海学校の跡が残っていた。

(サグレス岬のエンリケ王子)

 その時、突然、日本語で話しかけられた。長身で、細身、少壮の日本人男性だった。バスが来るまで話をした。彼は、サンチャゴ・デ・コンポステーラの巡礼路を歩き、さらにバスを乗り継いでここまで来たと言う。私は驚き、感嘆して、「すごい旅ですねえ」と言った。すると、彼は「いえ。あなたこそ。そのお年でこんな所までよく来られましたねえ。感心します」と返された。

 (サン・ヴィセンテ岬)

 そうか。年代別オリンピックなら、沢木耕太郎賞をもらえるかもしれないなと思って、年甲斐もなくうれしかった。

 (サン・ヴィセンテ岬の灯台)

 サグレス岬もサン・ヴィセンテ岬も荒涼として、突然、大地が大西洋に落ちていた。「ここから、海、はじまる」。

 古い友人たちと一献傾けていたとき、柔道8段に昇段したという男が私のブログを読んできたらしく、「その人は、エンリケ王子の化身だったかもしれませんよ」と言った。

   …… そうか。そうだったのか …… そこには思い至らなかった。いや、まあ、少なくとも、日本流に言えば、エンリケ王子が引き合わせてくれたのかも …… 。「こんな所まで、よく来られましたねえ」。

 その会のあと、今度はユーラシア大陸の果てから、私のブログに、こんなコメントが寄せられてきた。

 「すばらしい紀行文をありがとうございました。

 今、サン・ヴィセント岬の日没からホテルへ戻ってきました。

 メキシコに馬齢を重ねること40年、1973年に『お前も来るか中近東』(注 : 当時、バックパッカーのバイブルのような本だった)で、沢木耕太郎の逆回りをした初老の男です。

 カルペディム(カルペ・ディエムの略)的な生き方をしてきましたが、貴殿のこの紀行文は素晴らしいと感じました」。

 (このあと、まどみちおさんの「海」のことを書いた詩が添えられていた)。

 こういう出会いや言葉に励まされながら、私の旅は続いてきた。

 私は『深夜特急』の沢木耕太郎や、『お前も来るか中近東』の筆者や、ブログにコメントを寄せていただいた方とは違って、若い頃にバックパッカーの旅をした経験はない。それにインドも中近東も知らない。仕事をリタイアしてから、ヨーロッパに限定して、バックパッカーの若者と比べたら、安全で贅沢な旅をしてきた。それでも「冒険心」を抑えがたく、旅に出た。

 「注意して/でも、/勇気をもって」(沢木耕太郎)

 「旅の心は遥かであり、この遥けさが旅を旅にするのである」(三木清「旅に付いて」)

              ★

<ちょっと冬眠します>

 とはいえ …… 多分、私のヨーロッパ紀行はこれで終わりになるのだろうと思います。(行きたいという気もちは捨てませんが)。

 毎回、長々しい文章を、ここまで読んで(見て)いただいた読者の皆さまには、本当にありがとうございました。心からお礼申し上げます。

 しかし、ヨーロッパ紀行はともかくとして、このブログは続けます。まだ、少々は余力がありますから。

 でも、ちょっと冬眠します。春までかな?? 2か月ぐらい。まあ、のんびりといきますので、それまでどうかお元気で …… 。 

 (あっ、それから、これがこのブログの399号です。400号は超えますから)。

また  。  

 

 

 

 

コメント
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