ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

元皇帝ディオクレティアヌスの悲哀とスプリット……アドリア海紀行(7)

2015年12月22日 | 西欧旅行…アドリア海紀行

       ( アドリア海 )

10月28日 

 今日の午前中はアドリア海沿岸で最大の港町・スプリットを見学し、午後は観光バスに乗ってアドリア海をさらに南下、一路、ドゥブロヴニクへ向かう。

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< 皇帝ディオクレティアヌスの宮殿が町になった!! >

 スプリットもまた、かつてヴェネツィアの「サービスエリア」として機能した港町の一つである。だが、この町が多くの観光客を引き付けるのは、もっと大きな別の理由がある。

 ローマ帝国皇帝ディオクレティアヌス (在位AD284年~305年)は、自ら帝位を退いたあと、余生を送るために、この地に宮殿を築いた。

  「ディオクレティアヌスが生まれたのは、ダルマチア地方の一都市でアドリア海に面したサロナエだとされているが、彼が余生を送るのに選んだ地は、そのすぐ近くにありながら人里からは離れたスパラトゥムであった。ルネサンス時代はヴェネツィア共和国が基地にしていたのでイタリア語式にスパラトと呼ばれていたが、今はクロアチアに属し、名もスラブ式にスプリトと呼ばれている」。(塩野七海『ローマ人の物語13 ━ 最後の努力━ 』)

 その宮殿は、海側が180m、奥行きが215mあり、周りを厚さ2m、高さ20mの城壁で囲まれていた。

 「『別邸』 でも 『宮殿』 でもなく 『城塞』 と呼ぶしかない広大な建物が、ローマ帝国を元首政から絶対君主政に変えた男のついの棲みかであった」(同上)

 確かにこの宮殿は、そのイカツイ感じから言って、「城塞」と呼ぶ方が適切なのかもしれないと思う。

 話は一気に時代を下り、西ローマ帝国滅亡後のこと。この地方にも異民族が大挙して侵入し、ほとんど無政府状態になった。その混乱の中、この辺り一帯の居住民は、命の危険に迫られると、頑丈な城壁で囲まれ、今は廃墟となっているこの宮殿の中に逃げ込んでだのである。最初は逃げ込むだけだったが、やがてそこが生活の場になっていく。

 こうして、人々は廃墟の宮殿をだんだんと町に変貌させていったのである。

 宮殿が町になるというのは珍しいが、似た例ならたくさんある。

 例えば、ウィーンは、もともと、ドナウ川を防衛線とするローマ帝国の、第13軍団6000人を収容する前線基地だった。ローマ軍は兵站(ヘイタン)でもつ、と言われるが、ローマ軍にとって兵站とは、前線の軍隊に送る武器や食料のことだけではない。前線にしっかりした軍団基地を築くのも兵站である。故に規格が定められていて、1辺は400m、堀と城壁で囲まれていなければならない。緊急の出動に備えて、基地の中は立派な道路が縦横に走り、メインストリートは城門を出て街道につながる。また、広場があり、士官や兵士の兵舎は言うまでもなく、浴場や病院や時には劇場までもが完備されていた。文明の果てる辺境の地にあって、それはもう立派な町である。ドナウ川の水運に生きる商人や付近の住民は、朝、広場に市を立てて交流する。何しろ、ここは安全が保障されていた。

 ローマ帝国が崩壊し、今まで安全を保障してくれていたローマ軍が去ったあと、ドナウ川の水運に生きる商人たちや住民たちは、異民族によって荒らされ、破壊されたとはいえ、なおそのあとをとどめるローマ軍団基地の城壁の中に住みつくようになる。それが、歳月を経て、都市へと発展したのが、あのちょっと気取った音楽の都・ウィーンである。

 それにしても、宮殿が町になったのは、珍しい。ユネスコの世界文化遺産である。

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< 宮殿の名残りを留める街を歩く >

 スプリットはアドリア海に臨み、その海岸線はプロムナードになっていて、しばらくその散歩道を行く。よく晴れ、秋の日差しが降り注ぎ、海に開けて開放感がある。

        ( 海岸のプロムナード )

 元宮殿の南側の門(「青銅の門」)を入り、地下に降りた。

 降りた所で、石の壁に掲示されたディオクレティアヌスの宮殿図を見ながら、現地ガイドの説明を受ける。一番後方からツアーグループの頭越しに宮殿図を撮影したら、ガイドの手の影まで写ってしまった。

   (皇帝ディオクレティアヌス宮殿図 )

  現在のスプリットは海岸線がプロムナードになって、宮殿は海から少し奥まった所にあるが、シルエットの指が指し示すように、建設当時の宮殿は、南側の城壁を波が洗うほどに海に接して建てられていた。海側の城壁の上方には回廊があり、引退した元皇帝ディオクレティアヌスは、毎朝、この回廊から、朝日にきらめく紺碧のアドリア海を眺めていた。

 この海側の南向きスペースは、宮殿の主である元皇帝とその妃の居住部分だった。外敵に攻撃されるようなことがあっても、攻撃は陸側からで、宮殿内では最も奥まった、しかも、眺めの良い、南向きの空間であった。

 皇帝の居住部分の北側、真ん中より手前の部分には、左側(西側)にユピテル神殿があり、右側(東側)には自分の死後のために造らせた霊廟があった。

 ユピテルは英語読みではジュピター。ローマの神々の中の最高神で、ディオクレティアヌスは自分をユピテルに見立てていた。「ローマ帝国を元首政から絶対君主政に変えた男」(同上)は、自らを神格化しようとした。

 北半分、即ち、図の真ん中より奥の部分には、元皇帝を守るための兵士たちの住む兵舎、事務室、作業場があった。

 しかし、この宮殿が建てられてから百年後には、国教化を勝ち取ったキリスト教徒たちによって、ユピテル神殿はキリスト教の洗礼堂に変えられ、ディオクレティアヌス廟は大聖堂に変えられた。異教徒の代表である皇帝の遺骸は、海にでも投げ捨てられたであろうか?

   ディオクレティアヌスのあと皇帝となったコンスタンティヌスは、313年、有名な「ミラノ勅令」によって、信仰の自由を再確認し、キリスト教を公認した。だが ……

 「ミラノ勅令で公認された信教の自由が、なぜ1400年も過ぎた啓蒙主義の時代になって、再び声を大にして主張されねばならなかったのか。答えは簡単だ。その間の長い歳月、守られてこなかったからである」(同上)。

 信仰の自由なら、古代ローマ時代の方が、中世キリスト教世界より、遥かに保障されていたことは確かだ。信仰の自由を認めるローマ社会において、時折、皇帝がキリスト教徒を弾圧したのは (キリスト教史観に言うほどひどいものではなかったにしても)、キリスト教徒だけが他者の宗教を認めなかったために、ローマ市民の反発を招いたからである。

  ( 城壁の外から見た大聖堂と塔 )

 宮殿の海側の部分、皇帝が生活した居住空間は、今は地盤沈下して地下宮殿のようになっている。長い歳月の間に宮殿であったことは忘れ去られ、人々は暮らしやすいようにその上に次々と建物を造り、宮殿の方は地下の物置き場として使われたり、ゴミ捨て場になったりしていった。

  (皇帝の居住した部分は、今は地下宮殿に)

 皇帝の居住部分と、ユピテル神殿 (洗礼堂)と 、霊廟 (大聖堂) とに囲まれた石畳の広場があり、それぞれの入り口に面していて、列柱が立ち並んでいる。

 その広場の正面に、謁見場がある (下の写真)。10段分ほど高くなったバルコニーになっていて、元皇帝がアーチ状の門から出てきて、兵士や官僚たちに手を振った場所である。

 (中庭から謁見の間を見る)

 現在の広場には、赤いマントを着て、赤い羽根の付いた銀の兜をかぶり、剣をぶら提げた、大男のローマ兵が二人いて、おカネを払えば、剣を抜き、怖い顔をして、一緒に記念写真に収まってくれる。客はなぜか女性ばかり。(ばかばかしい。そんなことにカネを払えるか!! というのが洋の東西を問わず、お父さんたちの感覚ようだ)。

 皇帝の霊廟として造られ、その後、大聖堂に変えられた建物の内部は、ローマの皇帝の霊廟であったという名残はほとんどなく、キリスト教の小さな大聖堂である。とは言え、今はその役目も終え、歴史的文化遺産となって、観光客で混み合っていた。

 洗礼堂に変えられたユピテル神殿は、わずかにローマのパンテオンを思わせ、簡素で晴朗な趣がある。

 洗礼者ヨハネの像の手前が洗礼盤。そこに彫られているのは、冠を被った中世前期のクロアチア王国の国王の像。古代ギリシャやローマ時代の洗練された彫像と比較すると、いかにも稚拙である。歴史は時に逆行するものらしい。彫像が彫像らしく、もう一度洗練されたものになり、その容貌に人格や個性が表れるようになるのは、ルネッサンスの前、ゴシック大聖堂を飾る聖人像からであろうか?

 

 (洗礼堂の洗礼盤)

 大聖堂、洗礼堂、広場などのあるディオクレティアヌス宮殿の南半分を見学し終えると、あとは普通によくある旧市街の細い通りになるが、ここも宮殿の中である。通りを北へ歩いて行けば、やがて宮殿を囲む城壁の門に出る。北側の門は「金の門」と呼ばれた。

 

 (ここも宮殿の中)

(宮殿の門の一つ・金の門)

 広場から西の方へ歩いて行くと、「鉄の門」があり、門を出ると、空が広く、開放感があった。レストランのテラス席が並び、魚市場もある。そこを越えると、新市街である。

        ★

< ドゥブロヴニクへ >

 昼食後、観光バスに乗って、今回のツアーの第一のお目当てであるドゥブロヴニクへ向かう。スプリットから210キロ。4時間半。

  (車窓風景…海に迫る国境の山並み)

 南へ南へと続くダルマチアの海岸部に、樹木の育たない、ゴツゴツした白っぽい山々が迫る。その山並みの向こうにはボスニア・ヘルツェゴビナ共和国がある。

 その南下するクロアチアの海沿いの道路を断ち切るように、ほんのわずかな距離、ボスニア・ヘルツェゴビナの領土が海に突き出ている。まるで火山が爆発して、その噴火口から流れ出た溶岩流が地形をつくっていくように、ユーゴスラビア連邦が解体する混迷の中で、そういう国の境が生じたのであろう。

 ボスニア・ヘルツェゴビナ領のコンビニでトイレ休憩。

 暗くなって、ドゥブロヴニクに着く。

 ドゥブロヴニクの郊外、森と畑の中のレストランで、自家製の野菜と、ワインと、3人組の演奏する民俗音楽付きの食事をした。

 今夜も大きな月が出て、空気は澄み、明るい。

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< 元皇帝ディオクレティアヌスの悲哀 … 塩野七生『ローマ人の物語13 ━最後の努力━ 』を踏まえて

 ローマ史上、五賢帝の時代と呼ばれるのはAD96年~180年のことである。大雑把に言えば2世紀。

 この時代、ローマの版図は最大となった。防衛線であるライン川、ドナウ川、チグリス・ユウフラテス川に沿って軍団が配され、この広大な地域を、約30万人の兵力で守った。

 防衛線の内側は空っぽである。わずかに首都ローマに近衛軍団がいるのみ。それでも、人々は、平和を謳歌できたのだから、パクス・ロマーナと呼ばれる所以である。

 だが、塩野七生は、五賢帝の最後の皇帝マルクス・アウレリウスを描いた『ローマ人の物語 11』の副題を「終わりの始まり」としている。「終わり」とは、もちろんローマ帝国の滅亡のことである。

 このころ、防衛線を越えようとする蛮族(バーバリアン)の活動が活発化する。危機感を抱いた皇帝マルクス・アウレリウスは自ら出陣し、ライン川からドナウ川を守る軍団長を集めて作戦を練るが、戦果を挙げられないまま、軍団基地の一つであった現在のウイーンで病没した。

 これに続く3世紀は、パクスロマーナを享受してきた人々にとって、悪夢のような世紀となった。幾度にも渡って、蛮族がライン川、ドナウ川の防衛線の間隙を突破した。そこを突破すれば、あとは無人の野を行くように帝国の奥深く侵攻かる。人々は殺され、家は焼かれ、略奪をほしいままにされた。遠く、本国イタリアにまで達したこともあった。

 ローマ軍が敗けたのではない。防衛線の間隙を抜かれたのだ。防衛線を守る軍団がそのことに気づき、やっと彼らを捕捉しても、戦場となるのは帝国内部である。

 そればかりではない。チグリス・ユウフラテスで境を接している大国ペルシャとの戦いもあり、皇帝と軍団がペルシャの卑怯な計略にかかってまるごと捕虜になり、再び帰って来なかったというローマ史上最悪の屈辱的な事件もあった。また、それまで比較的安定していた北アフリカでも、砂漠を越えて、盗賊集団に侵攻されるようになった。

 元老院は機能せず、兵士たちに推されて立つ軍人皇帝の時代になったが、その皇帝が相次いで部下に殺されるという政治の不安定さが、帝国の危機に輪をかけた。

 国土の安全が保障されなければ、どうなるか。各地を結ぶ商業活動は衰え、農民は外敵に荒らされた耕作地を放棄し、難民化した人々が都市にあふれた。治安が悪化すると、ローマ軍の動きを知り尽くしたローマ軍の脱走兵の集団が強力な盗賊集団と化して各地を荒らしまわった。人心は荒廃し、国家の財政もひっ迫する。

 このような時代に登場し、284年から305年まで皇帝としてローマ帝国を統治し、宿敵ペルシャを封じ込め、蛮族の侵攻を完全にシャットアウトしたのが、皇帝ディオクレティアヌスであった。

 塩野七生の『ローマ人の物語』において、皇帝ディオクレティアヌスが登場するのは、巻13である。そのサブタイトルは「最後の努力」。

 「20年の間、自分の家の中に蛮族や盗賊が押し入ってくることもなく、庭の中が、それらの敵を追い払うために駆け付けたローマ軍との戦場と化すこともなくなった当時のローマ人が、どれほどの安堵の想いにひたったかは想像も容易だ。平和は、人間世界にとっては最上の価値なのである。ただし、何もしないでいれば、それはたちまち手からこぼれ落ちてしまうのだった」(同上)。

 彼は、崩壊しかけていた帝国を、ブルドーザーで更地にするようなやり方で、徹底的に、立て直したのである。引退し余生を送るために造った宮殿が、城塞のようにイカツイのも、まさに彼の性格を表している。

 彼は、ローマ帝国を4等分し、自らを含めて、4人の皇帝と副帝を置いた(四頭制)。帝国を分割したのではない。防衛分担したのである。彼らはその生涯のほとんど、ローマの元老院に出席することもなく、それぞれ最前線に近いところに首府を置いた。そして、防衛線の間隙をついて侵入してくる敵をせん滅するために、防衛線を守備する従来の軍団以外に、それぞれの手元に遊撃隊を置いたから、兵員の数は従来の2倍になった。当然、何百年間も維持されてきた税制は変えられ、大幅な増税となる。

  ローマの皇帝は、中国の皇帝や、ロシアのツァーリや、オスマン帝国のスルタンとは違う。彼らは絶対専制君主であったが、ユリウス・カエサルが発想し、オクタビアヌスが用心深く作っていった(ローマの)皇帝は、「元首」であった。ローマの主権者はあくまで元老院と市民であり、皇帝は、元老院と市民に統治権を付託されるのである。

 5賢帝の一人、ハドリアヌスの、次のエピソードは、とても面白い。

 「皇帝ハドリアヌスが祭儀を行うために神殿に向かっていた途中で、一人の女に呼び止められた。女は皇帝に何かの陳情をしようと、途中で待ち構えていたのである。だが、それにハドリアヌスは、『今は時間がない』と答えただけで通り過ぎようとした。その背に向かって女は叫んだ。『ならばあなたには、統治する権利はない!! 』。振り返った皇帝は、戻って来て女の話を聴いたのである」。

 それから、150年。ディオクレティアヌスは、ローマの皇帝を、アジア的専制君主と同種のものに変えたのである。

 それまでも皇帝は法律を発することはできたが、それはあくまで臨時法で、永続法は元老院によって制定されてきた。ところが、ディオクレティアヌスは元老院の存在を無視し、「皇帝勅令」を発した。

 これでは、ローマは、ローマでなくなった、と言ってもよい。

 当然、一人で物事を決める専制君主には、君主の手足となる官僚群が必要になる。ディオクレティアヌスは、膨大な官僚組織を作り上げた。当然、彼らを養うためにまたもや大増税が必要となる。

 彼は、30代のころ、能力も高く、人格も高潔で、兵士たちにも愛され、弱体化する帝国を救うと思われた皇帝が、それも相次いで、つまらない部下に殺されるのを見てきた。危機のさ中、一人の優れた皇帝の死は、帝国の息の根を止めるほどの衝撃であった。故に、彼は、皇帝は決して部下に気さくであってはいけないと考えた。神のように尊い存在でなければならない。彼は、東洋の皇帝のように宝石をちりばめた冠をかぶり、衣装を飾り、高い所に坐し、自己の神格化を図ったのである。

 こうして彼は、21世紀の現代から見れば民主主義に反し、人権尊重の流れに逆行すると思われるような数々の改革を断行し、ブルドーザーのように働いたあと、皇帝になって20年後だが、やるべきことは全てやり遂げたというふうに、権力に固執することなく、「若く優秀な者に仕事を譲ろう」と、部下であったもう一人の正帝とともに引退して、後輩に道を譲ったのである。彼が育て信頼したそれまでの副帝を正帝とし、新たに副帝2名を決めた。

 彼の引退後のことも、また、いつ死去したかも、よくはわからないらしい。

 だが、あれほど完璧につくり直したはずのローマ帝国は、彼の引退後、すぐに崩れ始めた。彼が期待した、帝国を守ることを使命とするはずの 4人の皇帝・副帝は、さらに「俺も資格あり」と言う者も現れて6人になり、権力争いをし、内戦となり、結局、内戦を勝ち抜いた副帝コンスタンティヌスが唯一の皇帝として統治するようになる。自分が皇帝になるために、ただそれだけのために帝国内を戦場と化し、多くの兵士を戦死させたのである。…… 隠居所の宮殿の中で、ディオクレティアヌスはこの争いを、どのような想いで見ていただろうか。おそらく、眠れない日々が続いたに違いない。

  「仕事」というものは、そういうものである。結局、それは「人」によって築かれ、「人」によって崩れていく。期待した「人」が、たいていの場合、跡を継ぐほどの「器」ではなかったということだ。謙虚な人は、自分ができたことは優秀な後輩たちにもできる、と考える。しかし、彼らが輝いているように見えたのは、「彼」がいたからにすぎない。大局を見ることができ、志と持続する不屈の意思をもつ「器」は、少ないのである。

  引退後、彼の妻と娘が旅行中に、一人の副帝の「領地」で拘束され、幽閉された。ディオクレティアヌスはこれに抗議し、送り返すよう申し入れたが、無視された。引退し、権力を失った彼は、自分の妻子さえも守ることができなかった。

 塩野七生によると、ローマ史の研究者の中には、元首制から専制君主制となって以後のローマについて、これはローマではないとして、研究しない人もいるとか!! その気持ちはよくわかる。皇帝が専制君主となり、自らを神格化するローマに、何の魅力があろうか。

 だが、一方で、21世紀の価値基準を振りかざして、過去の歴史を裁くような歴史観に何の意味があろうか、とも思う。当然、いつの時代にも、「時代の制約」がある。さらに、その時代にはその時代の大きな「課題」がある。大切なことは、その「制約」の中で、その「課題」に対して、「人間」がどのように立ち向かい、克服しようとしたか、である。それを読み取るところに、歴史を学ぶ面白さも、意義もある。

 ディオクレティアヌスは、「ローマという文明社会」を絶対に亡ぼしてはならない、絶対に守り切ろうという使命感に生きた人ではなかろうか、とも思う。そのためなら、どのようなこともやりきる。リアリズムに撤する。必要があれば、大増税もする。自らを神格化もする。それでも、守り抜く価値があるのがローマだと、彼は考え、行動したのではなかろうか。

 専制君主になっても、自己を神格化しても、彼の中では、ヒットラーやナポレオンに見られるような「自己肥大化」「自己絶対化」はなかったのではないか?? それでなくては、あの鮮やかな引退劇は起こらないように思う。

 

 

 

 


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