ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

中世そのままの町・ローテンブルグ … ロマンチック街道と南ドイツの旅(4)

2020年04月11日 | 西欧旅行…南ドイツの旅

       (ローテンブルグの町)

 お伽の国のようなローテンブルグの町と、ロマンティックなノイシュバンシュタイン城(白鳥城)。この2つが今回の旅の目的である。

 今朝、ハイデルベルグを見学し、バスで古城街道を走った。途中、2カ所に寄って、午後4時過ぎ、タイムスリップしたような中世の町・ローテンブルグにやって来た。

 2度目である。

 最初の訪問は10数年の前。視察研修旅行中の日曜日で、心あわただしく訪れ、ただ感動した。その感動をもう一度確かめたくて、このツアーに参加した。

 日差しはやや赤みを帯びて斜光となっていたが、この時期のドイツの日暮れは遅い。まだ見学時間はある。

 ホテルに荷物を置いたあと、添乗員の引率でマルクト広場や聖ヤコブ教会などを見学。そのあと、夕食までの時間がフリータイムになった。

 (鍛鉄製の看板)

       ★

 今回のブログ(ロマンチック街道と南ドイツの旅(4))の記述の多くは、紅山雪夫『ドイツものしり紀行』(新潮文庫)の受け売りである。この本の最初の項が「ローテンブルグ」で、ローテンブルグという町の歴史や見どころが非常によくわかるように書かれている。私は傑作だと思う。

 もう少し大きく、ヨーロッパの中世とはどんな世界だったのかという点については、木村尚三郎氏(元東大名誉教授・西洋史学)の『西欧文明の原像』(講談社学術文庫)を読んで、頭の中にすっきりとイメージができた。

 広大な森がある。森は人間を寄せ付けない。

 悪代官の手を逃れ森の中に逃げ込んだ人々。そのリーダーとなって悪代官と戦ったのが、十字軍から帰って来た騎士ロビンフッドである。

 森にはいろんな動物が棲んでいる。クマもいるが、人間にとって森の王者はやはりオオカミだ。赤頭巾ちゃんの話にも悪役として登場する。満月の夜にオオカミに変身する男もいる。

 そのような森が切り開かれて、畑や牧場があった。川の流れがあり、村があり、領主の館もある。

 村と村との間は、深い森が隔てていた。そんな森をヘンゼルとグレーテルはさまよった。

 村から森の中へと続く一筋の道をたどるのは商人で、彼らは有力な領主の城のある所に集まって居住するようになる。こうして町ができるが、最初はせいぜい数百人規模の町だったろう。 

    町は商工業者が開いたから、その中心はマルクト広場である。マルクトはマーケット。市が立つ広場である。市は定期的に立ち、遠近からやって来た商工業者たちが取引をした。取引は公正でルールに則ったものでなければならないから、いわば公設の市となり、広場に面して市庁舎が建てられた。また、広場の一角か、広場の近くには、その町の中心となる教会があった。町が大きくなると、司教座が置かれる教会になった。

 下の写真の左手に少し見えるのがローテンブルグ市の市庁舎。その横にのぞく塔は、聖ヤコブ教会。ヤコブはこの町の守護聖人である。

 写真の正面の建物は市参事宴会館。三角形の破風の部分に仕掛け時計が見える。 

   (マルクト広場)

 ローテンブルグは神聖ローマ帝国皇帝によって認められた帝国自由都市だった。つまり、近辺の封建領主の支配する領土と同様に、いわば一つの国家として、自治が行われた。

 都市の行財政や防衛などを仕切ったのは、市の参事会である。

 市参事は町の有力大商人から選ばれ、市長もその中から選ばれた。

 市長と市参事の本拠となった建物が市庁舎だ。領主や王の館と同じだから、当然、それは町を代表する建築物でなければならない。ヨーロッパを旅すると、例えばウィーンの市庁舎は、オーストリアの国会議事堂よりも大きく、華麗である。そして、今でも、年に一度、市民が集まって大舞踏会が催され、ワルツが踊られる。

 写真正面の市参事宴会館は市庁舎に付属する建物で、市長や参事は特権としてここで宴会や舞踏会を開くことができた。この当時、一般市民には開かれていない。彼らは無給だったから、これが彼らの唯一、最高の晴れやかな特権だったのだ。

       ★

 ツアーの一行はマルクト広場で解散し、夕食まで自由時間になった。そこで、予定していたとおり、ブルグ公園へ向かった。

  (ブルグ門をくぐる)

 メルヘンチックな街を抜け、町の西のブルグ門を出ると、「ブルグ公園」がある。ベンチがあり、城壁の跡があって、その向こうに黄葉したタウバー渓谷が広がっていた。 

   (ブルク公園)

 ローテンブルグの全体図を見ると、左を向いた人の顔(頭から首にかけて)に似ている。ただし、鼻が高い。天狗の鼻である。

 ブルグ門を出た「ブルグ公園」が、その鼻の部分に当たる。つまりここは、タウバー渓谷に半島のように突き出した丘なのだ。公園のベンチから見える向こうの家並みは、渓谷を隔てたローテンブルグの町だ。

 10世紀、ローテンブルグ伯がこの鼻の部分に当たる、タウバー渓谷を見下ろす丘の上に城を築いた。三方が谷なので、東側だけ塞げばよい。さっきくぐったブルグ門が東側を防ぐ城の城門だ。ブルグは城のこと。当時は堀があり、跳ね橋が架けられていたが、今は、城はなくなって公園となり、ただブルグ門のみが残る。この城がローテンブルグの町の起こりであり、また、町の名の由来でもある。

 ブルグ門を出て東へ、マルクト広場へ通じる300mほどの道があるが、ヘルンガッセという。今もローテンブルグのメイン・ストリートである。城ができた当時、この道は野中の一本道だったが、何かあれば城内に逃げ込むことができるから、各地から商工業者たちがやって来て住み着き、道沿いに商店を開いて城下町をつくった。最初にヘルンガッセ沿いに店を開いた商人たちは、その後、町が拡張していくにつれて、町を牛耳る大商人になっていく。商工業者たち=市民たちから見れば、ローテンブルグの発祥の地はローテンブルグ城ではなく、このヘルンガッセであったということもできる。「ヘル」とはもともと「偉いさん」という意味らしい。「大旦那通り」である。

 12世紀になると、市民たちは町を囲む(第一次)城壁を築いた。この時代のローテンブルグの城壁の長さは周囲約1.5キロ。左を向いた顔の、頭や首を除いた、正味の顔の部分に相当する小さな町だった。

 最初に城を築いたローテンブルグ伯家は12世紀に断絶し、城はドイツの有力な貴族(領主)シュタウフェン家のものとなった。

 シュタウフェン家の最初の城主になったのは、まだ8歳の子どもだった。のちの皇帝フリードリッヒ1世(赤ひげ・バルバロッサ 在位1152年~90年)である。日本でいえば、源平合戦から鎌倉幕府ができる頃だ。その後代々、皇帝の居城の一つであったが、やがてシュタウフェン家も断絶し、地震で城は倒壊した。

 以後、商工業者の町として発展したローテンブルグは、1274年に当時の皇帝から帝国自由都市の名を得る。封建領主と同じように、自治が認められたのである。

 この頃、第一次城壁の中は狭すぎて人家が城壁の外に大きく広がっていた。そこで、城壁の大拡張が行われる。顔の部分だけだった町が、頭部全体の大きさになり、城壁の全周は約2.7キロになった。

 15世紀に入って、城壁はさらに南の方に拡張された。横顔の首の部分である。

 こうして、現在見る中世都市ローテンブルグができあがった。

 木村尚三郎氏は、『西欧文明の原像』(講談社学術文庫)の中で、このように述べている。ローテンブルグの歩みが、ヨーロッパの中世都市の発展と軌を一にしていることがわかる。 

 「まず城ができ、商人・手工業者たちが、敵の来襲に際してすぐ城中に逃げ込めるよう、城の近辺に移り住み、封建貴族の保護と支配を受けながら経済活動をはじめ」、

 「やがて彼らの人数が多くなるとみずから居住部分を城壁で囲むようになる」。

 「こうして成立した都市は、やがて貴族の支配から脱して遠くの中央権力(国王、皇帝)と結び、これから特許状を付与されて(12、13世紀)、新たにその保護と支配をうけ、(近辺の)封建貴族とは対立関係に入り、ことに14、15世紀以降は、貴族権力を弱めつつ発展をとげてゆく」。

 ただし、ドイツは皇帝権が弱く、19世紀の初めまで(ナポレオン戦争まで)、封建諸侯や帝国自由都市が300以上もあり、それぞれが独立国のようであった。これらがナポレオン戦争を経て統合されていき、ローテンブルグはバイエルン王国に併合された。

       ★

  (タウバー渓谷と石橋)

  (渓谷を隔てて見る城壁と塔)

 タウバー渓谷を城壁沿いに歩いて散策し、コーボルツェラー門からもう一度城内に入ると、ローテンブルグ第一の撮影スポットの「ブレーンライン」(小広場)に出た。

   (プレーンライン)

 分かれ道になっていて、それぞれの先に塔門があり、それぞれが街道に通じている。全ての道はローテンブルグに通じる、である。

 引き返して、メイン・ストリートのヘルンガッセをマルクト広場の先へどんどん行くと、町の東の門であるレーダー門に到る。

 (レーダー門を出た所から)

 この道をさらに東へ歩くと、「ローテンブルグ駅」に到る。個人旅行の観光客だけが利用するローカルな駅だ。

 そういうことで、レーダー門がローテンブルグの正門の役割をしている。 

 レーダー門のわきから、城壁の上に上がることができた。

 「武者走り」を少し歩いてみる。城外に向かっては矢狭間(ヤザマ)や鉄砲狭間が開けられ、内側は家々の赤い屋根が連なって見えた。   

    (城壁)

 この城壁は第二次世界大戦のとき連合軍の爆撃で破壊され、長い歳月で傷んだ部分も多く、修復・保存のために1m間隔で基金を募った。その結果、この町を愛する世界の人々から募金が集まった。今は、修復された壁に、基金に応じてくれた企業名や個人名を刻んだプレートが1m間隔で嵌め込まれている。日本の企業名を刻んだプレートもあった。 

        ★

 夕食後、もう一度、日の暮れたマルクト広場へ行ってみた。

  (マルクト広場へ )

 商店はとっくに閉まっていたが、広場の建物はライトアップされ、観光客がそぞろに散歩を楽しんでいた。

 (ライトアップされたマルクト広場)

 黒いマントの男は、「中世の夜回り」である。観光客とともに、火の用心の夜回りをする。学生アルバイトだろうから、もちろんチップは必要だ。

 市参事宴会館の仕掛け時計が8時を示した。定時である。

   (仕掛け人形)

 左の窓からはティリー将軍、右の窓からは市長のヌッシュの人形が現れ、ヌッシュ市長が巨大なワインジョッキのワインを一気飲みする。三十年戦争の時の一場面である。

 時は17世紀。戦いに明け暮れた中世ヨーロッパのいかなる戦争をも超える悲惨な戦争だった。戦争は新教(プロテスタント)側と旧教(カソリック)側との戦いとして始まった。

 ローテンブルグ市民は新教側に付き、旧教派軍の包囲戦に耐え抜いた。しかし、ついに刀折れ矢尽きて開城する。

 自らの軍隊の消耗も激しかった旧教軍を率いるティリー将軍は、「市参事は全て斬首。全市は兵士たちの略奪に任せたあと、焼き払う」と宣言した。

 町中の女子供がマルクト広場に集まり、ティリー将軍の前にひざまづいて嘆願したが、無駄だった。

 参事たちは将軍にワインを飲ませ、ほろ酔い機嫌になったところでヌッシュ市長が進み出て、3.25リットル入りの大ジョッキにワインを注ぎ、これを一気飲みして見せると言う。「できるものか」と言う将軍に対して、「もし飲み干せたら町を焼かずに助けてほしい」と言う。ほろ酔いの将軍は約束してしまった。ヌッシュ市長は大ジョッキを抱え、ぐびぐびと10分間かけて一気飲みし、飲み干して倒れ気を失った。

 こうして町は救われ、今も毎年10月30日には、この事件を記念して、町中の老若男女の市民たちが敵味方に分かれ、当時のいでたちに扮装して、劇として再現する。

   ★   ★   ★

<閑話 … ウイルスとたたかうフランスとイタリア>

 毎日、新コロナウイルスのことが報道される。武漢に続いて西ヨーロッパの悲惨な状況を映像で見、また、テレビやネットに批判と不平不満が氾濫する日本の現状を見聞きするにつけ、気分が鬱状態になる。それで、お天気の良い日にはウォーキングに出て、春景色を楽しんでいる。体も大切だが、桜を愛で、ウグイスの声に耳を傾ける心の余裕も大切だと、つくづく思うこの頃である。

       ★  

 ところで、ヤフーニュースによると、パリ在住の作家・辻仁成氏が、4月6日、現地の様子を日本テレビでリポートしたそうだ。ニュースの中に、辻仁成氏は、「何より驚いているのは、徹底した個人主義のフランス国民が、みんなで一丸になって頑張ろう、という気持ちになり、政府の言いつけを守っていることだ」と述べた、と書かれている。

 ムムムッ。この言い方はちょっとおかしい。中世都市について書いたついでに、少し触れておきたい。

 辻氏は、本来、フランス国民は政府の言うことに従わない「反政府」の国民であり、それは彼らが「徹底した個人主義」の国民だからだと考えているようだ。

 敗戦後の日本に、「人に迷惑をかけなければ、何をしようと個人の勝手。それが民主主義というものだ」という風潮があった。それを突き詰めると、「もしどこかの国が攻めてきたら逃げますね。国とか社会とかより、個人が大切でしょう」ということになる。

 辻氏は、こうした自身の中ある価値観を、フランス国民という鏡に反映させて、自分を映して見ているのだ。

 ヨーロッパの中世都市国家は封建領主から自由を勝ち取ったが、勝ち取った自由を守り抜くのは、また市民たち自身である。市民たちは自らに納税の義務と防衛の義務を課した。自分たちのカネと力を合わせて、「わが町」を城壁で囲み、家族と隣人と「わが町」を守ろうとした。でなければ、いったい誰が守ってくれるだろう??

 そういう「市民精神」の気概の上に、西洋の「個人主義」はある。「市民精神」とは、簡単に言えば、みんなは一人のために、一人はみんなのために、という精神である。その前提の上に、各自の家の中のことは各自の勝手、というのが、西欧の「個人主義」である。

 パリの街を歩けば、杖を突いた老人や障害者が信号を渡ろうとするとき、そばを歩いている誰かが当たり前のように腕を取り、一緒に渡る光景を目にする。

 パリの街で、ベランダや窓に洗濯物を干した光景を見ることはない。美しい街並みを維持するために、洗濯物を外に干すことは、法律で禁じられているのだ。

 リスボンやヴェネツィアでは、小道をはさんだ向かいの窓からこちらの窓へと、色とりどりの洗濯物が風になびいて、それはそれで風物詩になっている。

 ただ、パリっ子は「パリは、世界一、美しいパリでなければならない」と考え、この法律を支持し、「私権を侵すから反対」などと言わないのだ。時に、「私」よりもパリ(「全体」)が優先する。それがパリであり、ヨーロッパだ。

 (ポルトガルのポルト)

                      ★

 4月7日付の讀賣新聞に、ウイルスと苦闘するイタリアからのレポートがあった。ジャーナリストの内田洋子氏の寄稿である。その一部を引用する。

 「(イタリアの)農協の調査によれば、外出禁止になってから小麦粉の売り上げが2倍に伸びたという。朝起きたら、母親が焼いたビスケットがある。ハート形だ。父親と一緒に粉から作るピッツァは世界一おいしい。バリカンで自分の髪をカットしてくれる高校生の姉に、小学生の弟は『失敗しても気にしないで。髪はまた生えてくるから』と、礼を言う。

 皆がバルコニーに出て歌ったのは、単にイタリア人が陽気だからではない。独りにさせない。隣人を気遣い、安否を確認し合う。泣かないために笑う、からなのだ。

 『生きていたら、経済のどん底からも必ず立ち直れる。物事の重要さの順位を肝に銘じ、弱い人を守り、他人への責任を果たしましょう』

 大統領と首相のこの言葉を受けて自宅待機を続ける国民が今、ウイルスに侵されてなるものか、と一生懸命に守ろうとしているものは、人としての品格ではないか」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする