< 戸隠への旅 >
今夏の猛暑を何とかやり過ごし、10月の声を聞いて、2泊3日の旅に出た。「戸隠神社と小谷温泉の旅」である。
新大阪から新幹線で名古屋へ。名古屋で「しなの7号」に乗り換え、長野へ向かった。
車窓から久しぶりに見る木曽福島の町の眠ったようなたたずまいも、やがて右手前方に見えてくる美ケ原高原のどっしりした山容も、昔と少しも変わらずなつかしかった。
午後1時前に長野駅に到着。レンタカーを借りて戸隠へ向かった。
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前回、戸隠高原に行ったのは働き盛りの頃で、5月の連休を利用してのあわただしい旅だった。
予約もせず、大阪発長野行きの夜行列車に乗った。
夜行列車に乗ってでも旅に行こうという元気が、その頃はまだあったのだ。
車内は、連休を利用して上高地から穂高・槍に向かおうという若者や、信州の高原で立原道造の詩集を読もうという学生など、元気と時間はあるがおカネはないという若者ばかりだろうと思い込んでいた。何でおじさんが1人、と思われるのではないか …。
だが、意外にも、満席の列車の中は登山姿のおじさん、おばさんばかりだった。
もう登山は流行らない。大学生が夜な夜なディスコで踊るバブルの時代である。山登りにストイックなロマンを感じるのは、自分と同世代の中高年ばかりなのだと改めて知った。
そういう自分も、仕事に追われて登山もスキーも卒業し、その時の旅はカメラを持っての撮影旅行だった。戸隠高原の湿地の水辺に咲く水芭蕉や、長野市近郊のリンゴ園のリンゴの花を撮影しようという旅だった。あわただしく行き、あわただしく帰ったが、水辺のそこここに咲く幻想的な水芭蕉の白い花、そして、桜の花びらに似てピンクがやや濃い可憐なリンゴの花が、今も脳裏に残っている。
そのときは、戸隠神社を気にしながら、戸隠森林植物園の水芭蕉だけをたずねて帰った。今回の旅は、秋色の戸隠森林植物園を気にしながら、戸隠神社をたずねる旅である。
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< 天の岩戸、空を飛んで戸隠山となる >
戸隠神社は、戸隠山(標高1904m)の山麓にあり、麓の方から上へ向かって順に、宝光社、火之御子(ヒノミコ)社、中社、奥社と九頭竜社の5社から成る。「5社巡り」が正式の参拝である。
5社は県道36号線沿いにあって、それぞれの社の結界を示す鳥居の駐車場まで車で行くことができる。もっとも、奥社は駐車場から片道2キロの参道を歩かねばならない。
本来なら、というか昔の人は、遥か下にある戸隠神社の一の鳥居から、宝光社や中社を経て、奥社まで延々と歩いた。そのため、宝光社や中社の周辺には小さな門前町があり、今も何軒もの宿坊が残っている。
遥か神代の昔 … 。
高天原では、弟の素戔嗚(スサノオ)の命(ミコト)の乱暴のために、天照(アマテラス)大神が洞窟に隠れ天の岩戸で入口を閉ざしてしまった。そのため、世界が真っ暗になる。高天原の八百万の神々は集まって、相談した。こういうときに知恵を出すのが、知恵の神の思兼(オモイカネ)の命である。この神様の緻密な段取りのことは記述するのを省略して、とにかく神楽の演奏の下、天の鈿女(ウズメ)の命が桶の上で見事なセクシーダンスを踊った。そのまわりを囲む八百万の神々が囃し立てる。天照大神が何事かと岩戸を少し開けた。すかさず怪力の神・天の手力雄(タヂカラオ)の命が岩戸を引き開け、天照大神の手を取って引っ張り出した。作戦は見事に成功し、世界は再び明るくなったという。
以上は『古事記』にも『日本書紀』にもある神代の記述だが、手力雄(タヂカラオ)の命が岩戸を開けたとき、アマテラスが再び閉じこもらないよう、その岩戸を遠くへ投げ飛ばした。投げ飛ばされた岩戸が地上に着地して戸隠山となった、というのが戸隠神社にまつわるこの地の伝承である。想像力豊かというか、面白い。
それで、戸隠神社の5社のうち、奥社には手力雄(タヂカラオ)の命が、中社には思兼(オモイカネ)の命が、火之御子社には鈿女(ウズメ)の命が、そして、宝光社には思兼(オモイカネ)の命の息子の表春(ウワハル)の命が、それぞれ祭神として祀られている。九頭竜社は、もともとこの地の地主神であった九頭竜大神が祀られている。
この伝承がいつごろ生まれたのかはわからない。
ただ、戸隠山の恐竜の背のようなギザギザした岩尾根や、修験道が盛んになるにふさわしいこのあたりの山深さは、いかにも神秘的で謎めいて、大和の穏やかな風土とはかなり異なる風情がある。
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< 神仏習合し、修験道さかえる >
だが、戸隠神社に伝わる縁起は、以上の話と少し異なる。
奈良時代の終わりごろの849年、「学問」という名の修験僧が、現在の戸隠神社の奥社のあたりで修業を始め、戸隠寺を開いた。
平安時代の後期になると、この地でも天台密教、真言密教、神道が習合し、修験道はますます隆盛を極め、全国から修験者や参詣者が集まるようになった。宝光院、中院も開かれ、諸坊が連なって、大きな勢力となった。
神も仏も習合させ、天地自然から真理を感じ取ろうというのが、日本の宗教である。大和の国の山野を翔け巡ったのは役(エン)の行者。その子孫が安倍晴明、空海は経典仏教に飽き足りず、天地の中で修業して、密教を始めた。禅宗が受け入れられたのは汎神論だからである。
明治に入って、新政府は古代さながら、太政官とともに神祇官も設立し、維新に功績のあった神道系の人々をこの役所に取り込んだ。太政官が多忙を極める中、何の仕事もないこの役所は、神仏分離令を出して廃仏毀釈を進めた。異国の教えである仏教が入る以前の、神国日本に純化しようというのである。
戸隠も、お上の命令で、寺や仏像が排斥され、純粋な神社となり、僧は還俗して神官となった。
僧が時流に乗って還俗し神官になったことを、戦後になって批判する学者・論者がいるが、そういう批判する輩も時流に乗っているのは同じである。大きな流れで見れば、日本では長年、神仏は習合しており、日本人のものの考え方は融通無碍なのである。神か悪魔か、善か悪か、白か黒か、キリスト教かイスラム教か、神道か仏教かという二元論は、本来、一神教の世界である。天地自然の中に身を置き、そこに真実を感知しようとする人々が、舶来の仏教をも取り込んで、日本的仏教をつくっていった。左脳でお経を解読するお坊さんも、その左脳で虫の音やせせらぎの音を聞く。だから、「日本」を意識しようとしまいと、結局、彼が解釈する仏教は、年月を経て日本的仏教にならざるをえない。
左脳で虫の音やせせらぎの音を聴くのは、遺伝子の問題ではない。日本語を母語とする人々の文化的特質である。
小鳥来る 村に一社と 一寺あり (「読売俳壇」から、日高市/駿河兼吉さん)
個々の神社と寺が仲が良かろうが悪かろうが、日本人は両方を必要とし、受入れるのである。
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< アメノウズメの踊りはボレロのよう >
長野駅から車で約1時間、宝光社の門前の宿に着いた。
宿でチェックインして、早速、火之御子(ヒノミコ)社まで車で行った。
県道の脇に車2、3台分の小さな駐車場があり、木の鳥居があって、そこから山の方へ少し上がると、お社がある。
( 森の中の火之御子社 )
5社のうちでは一番小さい神社である。村の神社の風情で、ひっそりとして、女神・ウズメノミコトを祀るにふさわしいやさしさを感じる。
他の4社が神仏混淆であった時代も、ここは一貫して神社であったという。
話は少し脱線する ……。
ふとしたきっかけで、シルビー・ギエム、そして、上野水香の踊るバレー・「ボレロ」を映像で見て、感動した。世界のバレーファンが拍手したのも理解できる。
そして、神代の時代のアメノウズメの踊りも、このようであったに違いないと確信した。
漆黒の闇の中、松明の火に照らされ、八百万の神々の中央で、汗に濡れて踊るアメノウズメの姿はセクシーである。小泉くん、「セクシー」という言葉はこのような対象に使ってほしい。
さらに話は飛躍する。
佳子さまが市民ホールで開かれたダンススクールの発表会で、へそ出し衣装で登場したと週刊誌が書いた。「佳子さまの『へそ出しダンス』を許容する秋篠宮家の教育方針」と題したフライデイの記事も、ネット上で紹介されている。今は、秋篠宮家をたたけば、販売部数を稼げるのだ。
敬して論ぜず、それが国民の皇室に対するあるべき姿である。
敬して論ぜず。週刊誌もネットも、常日頃の自らの品位のなさを、まず振り返るべきである。
平安朝の十二単だけが日本女性の美ではない。古代の神々の時代はもっとおおらかだった。
令和の時代、皇族の若い女性は、十二単を着こなすためにも、可能ならアスリートのように体幹を鍛えてほしい。令和の時代には令和の時代の女性美があっていい。和歌は詠めるが、英語はしゃべれない女性では、時代遅れなのと同じである。もし佳子さまが上野水香のような強靭でしなやかなボディをつくることができたら、私はあっぱれと拍手を送りたい。
そのようにして美しくなった佳子さまが、天皇の叔母様、黒田さんのように、伊勢神宮に奉仕する姿をいつか見たいものである。
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< 神道(かんみち)を歩く >
さて、お社の横から森の中に参道(山道)が伸び、右へ行けば中社、左に行けば宝光社と、掲示板が出ている。
( 社の横から宝光社へ行く参道 )
宝光社は、門前から参拝しようとすれば、苔むした急な石段を274段、登り降りしなくてはならない。
それより、この山道を歩いたほうが楽しいかと思って、宝光社まで往復した。山の中の道を片道1.3キロだ。
「神道」と書いて「かんみち」と読むらしい。
最初の写真に見るように、所々に「クマ出没注意」の看板も出ていた。
やがて、宝光社に着いた。
こちらは、手の込んだ彫刻のある堂々たるお社である。
( 立派な造りの宝光社 )
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< 戸隠蕎麦は絶品でした!! >
この夜の宿泊は、宝光社門前町の「宿坊 山本館」。
廊下もすべて畳敷きで、まだ新しく、きれいだった。
何と言っても、その夜の「蕎麦懐石料理」は美味しかった。一品ずつテーブルに運んで説明付き。決して高級な食材ではなく、土地の素材ばかりだが、安い宿料では申し訳ないくらい、一つ一つ手の込んだ料理だった。そして、何より絶品は戸隠蕎麦。蕎麦が、こんなに美味しい食べ物だとは知らなかった。
『夕鶴』の中で、つうが与ひょうに作る「そばがき」も食べた。
翌朝行われる「朝拝」にも参加を申し込んだ。明日は雨模様だ。