ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

宗谷岬からオホーツク海沿岸を走る … 岬めぐりのバスに乗って(北海道の岬をめぐる旅) 4

2017年08月18日 | 国内旅行…岬めぐりのバスに乗って

     ( 宗谷岬…「日本最北端の地」の碑 )

※ ご無沙汰しました。このブログは、北海道の岬をめぐる旅の途中です。

日本最北端の岬に立つ >

 5月13日(土) 曇天。

 3日目は、宿を7時半に出発した。

 あわただしい旅はいやだなあ。せめて8時出発にしてほしい。早い出発でもいいが、それなら、朝食をもっと早く準備してほしい、などと思っているうちに、日本最北端の岬、宗谷岬に到着した。

 ( 日本の最北端は択捉島のカモイヨッカ岬だが、今、日本国民が行くことのできる日本国の最北端が宗谷岬である )。

 バスから降りると、まだ冬。5月中旬とは思えない寒さだ。冬のコートを持ってきてよかった。

 初日に行った積丹半島の神威岬とか、昨年訪れた津軽半島の龍飛崎は、山の峰が延々と海に突き出し、最後は断崖になって、未練の緒を引きながら、海の中に切れ落ちている。

 ここは、そういう抒情的な岬ではない。

 大きな半円を描いたような岬だ。断崖絶壁はなく、波打ち際のそばを道路が通り、どこが突端かもわかりにくい。

 昨日行った野寒布岬や、昨年訪ねた下北半島の大間崎がそうだった。あっけらかんとしている。ここで、大地が尽きた、という感動がない。

 晴れていて空気が澄み、40キロ先に雪を戴いたカラフトの山並みが見える日なら、もっと国境の岬の感を抱くのかもしれないのだが。

 宗谷 = ソウヤとは、アイヌ語で、岩礁や暗礁の多い所の意らしい。

[ バスガイドの話 ]  樺太と北海道とを分ける宗谷海峡は、北海道と本州とを分ける津軽海峡と比べて、海が浅い。そのため、海面が低くなる地球の寒冷期には、北海道、樺太、そしてユーラシア大陸は、陸続きになった。その時期も、津軽海峡によって隔てられた北海道と本州とは、陸続きにならなかった。

 帰ってから調べると、宗谷海峡は最深部でも60mほどしかない。

 「宗谷海峡」は日本名である。国際的な名称は、ラ・ペルーズ海峡。フランスの航海家ラ・ペルーズが1787年にこの海峡を通過し(発見し)、その名が冠せられた。ヨーロッパは絶対主義の時代の終わりに差し掛かり、世界の隅々までも調査し、植民地化しようという時代だった。日本やそこに住む日本人は、無知な野蛮人として、存在しないかの如く無視された。

 宗谷岬の海と反対側は丘となり、丘の上に宗谷岬灯台があった。日本最北端の灯台である。「日本の灯台50選」の一つ。

 海は、波打ち際で眺めるより、少し高い所から見たほうが味わいがある。灯台のある丘は、海を眺めるには手ごろな高さだし、逆方向から、即ち海をバックにして灯台を撮影したいのだが、20分の自由時間に、丘を上がって、下りてくるのは、ちょっと苦しい。

 それに、烈風も吹き、寒い。

     ( 宗谷岬灯台 )

         ★

間宮林蔵のこと > 

  近くに、間宮林蔵の像が建っていた。像は、樺太の方を見つめていた。

 この像は、昭和55年に、林蔵の生誕200年を記念して、岬の南西3キロほど稚内寄りにある「間宮林蔵渡樺の地」に建てられたそうだ。その後、宗谷岬に「日本最北端の地」の碑が建立されたとき、像もここに移された。

 

      ( 間宮林蔵の像 )

 間宮林蔵が樺太に渡った地点には、今も「間宮林蔵渡樺の地」と書かれた自然石の小さな碑と、旅立ちに当たって自ら建てたとされる小さな墓がある。

 先ほど、バスで通った。そこを通りかかったとき、バスガイドが教えてくれので、一瞬、バスの窓から撮影することができた。

 

   ( 渡樺に際して自ら建てた墓 )

 写真の右側の立派な碑は、関係ない。左端の縦長の石が、「間宮林蔵渡樺の地」の碑。その右横の小さな石が墓石である。 

 間宮林蔵は、幕府の命により、1808年と09年の2度、ここから海を渡って、樺太を探索した。1度目のとき、彼の地での死を覚悟し、故郷の筑波から持ってきた石を置いて、自分の墓石代わりにした。故郷にも、同様にささやかな墓を建てて出発した。

 以下の「 」内は、司馬遼太郎『街道をゆく オホーツク街道 』からの引用である。

 「当時の日本は鎖国をしていたために、欧州人に探検されたり、発見されたりするだけの存在だった。

 ただ、幕府や民間の知識人のあいだに、対外的な危機感はひろがっていた。

 とくに、幕府は、北海道の島主である松前藩の対アイヌ酷使の政策が気に入らなかった。

 ラ・ペルーズが宗谷海峡を通過する(1787年)2年前、老中田沼意次が大規模な蝦夷地 (樺太・千島をふくむ) 調査を開始した。

 一方において、ロシア人がしきりに南下運動をつづけていた。ついに根室までやってきて松前藩に通商を申し出たのは、ラ・ペルーズが宗谷海峡を通過する10年前のことである」。

 樺太については、松前藩もすでにその150年ほども前の1635年に調査を始め、翌年には南半分を調査し、その後も数次に渡って調査した。

 これに対して、1792年から最上徳内らによって始められた幕府の樺太調査は、「幕府は世界意識の上に立って樺太を見た。調査の方法も、欧州の技術におとらなかった」というものであった

 間宮林蔵は、常陸の国筑波郡の農家の出身だが、幼少のころから数理に明るく、江戸に出て、地理学者村上島之允に付いて学び、また、幕命によって蝦夷地を調査した師の従者として、調査に同行した。さらに測量家伊能忠敬に見いだされ、その門人となった。

 伊能忠敬に代わって、西蝦夷地 (北海道の日本海岸、オホーツク海岸)を測量し、さらに国後、択捉からウルップ島までの南千島の地図を作製している。

 彼が択捉島にいた1801年、ロシア軍艦2隻が、樺太で暴虐を働き、翌年、択捉島の番屋を襲い略奪した。このとき、間宮林蔵も番屋にいた。彼は徹底抗戦を主張したが、この時代の侍=官僚は事なかれ主義である。林蔵の主張は受け入れられず、幕吏たちは撤退した。事後、幕吏たちは間宮林蔵を除き、処罰を受けた。

 そして、1808年、林蔵は幕府の命を受け、上司の松田伝十郎とともに、樺太の探検に出発する。

 大先輩の最上徳内の助言により、アイヌの小舟に乗って樺太を北上しながら調査した。そして、2人で樺太が島であるという確証を得て、「大日本国国境」の標柱を立て、翌年、宗谷に帰着した。 

 欧州の探検家や地理学者は樺太が半島であると考えていたが、日本人は、もともとここが島であると思っていた。

 調査報告書を提出し、翌月、願いを出して許され、間宮は、再び、今度は単独で樺太に渡る。

 昨年の到達点をさらに北上し、島であることを確認した後、鎖国を破れば死罪であることを承知のうえ、原住民ギリヤーク人とともに、「間宮海峡」を大陸に渡って、アムール川下流域を踏査した。

          ★

 「樺太はその後、日露の雑居地になった」。

 「明治8(1875)年、日露間で条約がむすばれ、樺太全島はロシア領に、千島全島は日本領になった」。

 「ロシアは樺太をさほどには開発しなかった」。

 「1905年、日露戦争の結果として、樺太の南半分が、日本領になった。日本はここに樺太庁を置き、積極的に開発した。主要産業は漁業のほか、林業、製紙、パルプ工業、石炭採掘などで、日本人人口も増え、最盛期には40万を超えた」。

 稚内港駅で列車を降りた乗客たちが、樺太への連絡船に乗り換えた時代のことである。

 「太平洋戦争の敗戦で、日本はすべてを失った」。

 「1875年の日露間の条約により千島全島は法的に日本領であったのに、それまで不法に奪われた。 

 このような変転のなかで、歴史的存在としての間宮林蔵の影は薄くなった」。

          ★

オホーツクの沿岸を走る >

 昨日走った日本海側もそうだが、オホーツク海岸の車窓風景も、単調である。

 例えば、紀伊半島の太平洋岸の車窓風景は、岩礁や島々があり、岬があり、入り江があり、磯があって、日本庭園のように繊細である。

 一方、オホーツクの海岸は汽水湖が多く、今は枯草の原だが、もう少し夏に近づくと、原生花園となるそうだ。

      ( オホーツクの海 )

 北海道らしい直線道路がある。

 風力発電の風車が並んでいるところもある。

 このような民家のない原っぱ (大陸型の風土の場所) なら、よろしい。里山は、ダメ。それは日本の自然・景観の破壊になる。

 どちらにせよ、生み出しているエネルギーはたかが知れている。  

   ( 北海道らしい直線道路 )

 バスガイド曰く、「オホーツク海沿岸地方の風土は、農業には向きません。昔からこのあたりの町や村は、漁業と牧畜で生きています」。

 立ち寄った道の駅のそばに牧場があり、木曽駒のような馬が草を食んでいた。

   ( オホーツク海のそばの牧場 )

 オホーツク海は、樺太 (サハリン)、カムチャッカ半島、それに続く千島列島に囲まれた海域である。

 陸に囲まれ、閉じ込められたような海には、黒竜江 (アムール川) が大量の真水をそそぎ込む。そのため、淡水が海水の上層を成して凍りやすい。

 冬になると、厳しい寒気団・シベリア高気圧が居すわり、12月に結氷が見られ、2月にはオホーツク海の7、8割が海氷でおおわれる。それが、流氷となって北海道の北東岸に押し寄せる。

 北半球で、最も低緯度で見られる海氷だそうだ。 

 オホーツク高気圧が強い夏には、東北地方のイネが実らない冷害を生んだ。

 「オホーツク海は、稲作社会にとってはおそろしい海である」。

 「ただし、漁業者にとっては、別である。宝の海であり、いまもなおホタテ貝の養殖や昆布の採取という、大きな富をもたらしてくれる …… 要するにオホーツク海は漁民の海である」。(『オホーツク街道』から)。

 冬になると流氷船も出るという紋別市。

 紋別市はこの辺りでは大きな町で、8世紀から12世紀ごろ、「オホーツク海文化」人が一大集落をなしていたらしい。市内に遺跡が50か所以上あるという。    

 紋別セントラルホテルで、昼食をいただいた。寒い戸外から暖かい食堂に入り、出されたのはホタテ貝のホタテ尽くしである。新鮮な造りをはじめ、ホタテ貝の数々の料理が実に美味であった。それで、昼間から、燗酒1合を注文してしまった。

 旅のあと、『オホーツク街道』を読んでいたら、司馬遼太郎もこのホテルに宿泊していた。

          ★

知床半島が近づく >

 サロマ湖や能取湖などの汽水湖のそばを通り、車窓から、知床半島と、雪を戴いた斜里岳(1545m)が見えるようになった。

   網走の町を走り、網走刑務所を車窓に見て、網走と釧路を結ぶ釧網本線の線路に旅情を感じる。

  ( 釧網本線の線路 )

 今夜の宿は、知床半島の山懐である。

 

 オシンコシンの滝を過ぎると、高台に登り、今夜のホテルに着いた。

 ホテルから少し歩くと、ウトロ港が見下ろせた。知床岬めぐりの遊覧船が出ているが、今回は乗らない。 

     ( ウトロ港 )

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする