ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

サラエヴォに思う……アドリア海紀行(10)(修正版)

2016年02月10日 | 西欧旅行…アドリア海紀行

10月30日(続き)

< 首都サラエヴォに入る >

 バスはサラエヴォの市街地に入った。

 大都会である。なかなか町の中心部に到着しない。

 道路の道幅も広く、オフィスビルや綺麗なショップがつらなり、チンチン電車が走っている。日本と異なるのは、そのなかに、瀟洒なキリスト教の教会と、イスラム教のモスクがあることだ。最近建設されたように見える新しいモスクは、SFの世界のようだ。

 ( 車窓風景 : キリスト教教会 )

 

   ( 車窓風景 : モスク )

 そういう街並みのなかに、火災で全焼したような、骨組みだけの廃墟のビルがあった。内戦の記憶をとどめる遺産として残そうとしているのだろうか?? 周囲の街並みが平和であるから、余計に異様に見える。

  ( 車窓風景 : 廃墟のビル )

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 旧市街の近くでバスを降りて、サラエヴォのガイドとドッキングし、街の中心部を歩く。30歳過ぎ? ハンサムで物静かな青年だ。

 はや日は傾き、石造りの建物の間から、赤みを帯びて射し込む太陽の光がまぶしい。

 いきなり目を引く大きな建物があった。今はシティホールとして使われているが、オーストリア・ハンガリー帝国時代に、市庁舎として建てられた。ネオ・ムーリッシュ風というそうだ。

 内戦中の「サラエヴォ包囲」のとき、砲撃によって炎上した。内戦後、残っていた外壁をもとに修復されたという。中に入れば、ステンドグラスやイスラム風の美しい柱や壁が迎えてくれるそうだ。

 (ネオ・ムーリッシュのシティ・ホール)

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< サラエヴォは冬季オリンピックの舞台だった >

 「サラエヴォ」と言えば、私たちの世代の記憶にあるのは、1984年の冬季オリンピック。

 日本人にとって、同じヨーロッパでもイギリスやフランスと違って、「ユーゴスラビア」は遠い国である。学校で教わった知識と言えば、首都がベオグラードということぐらいであろうか。サラエヴォという都市の名も、ほとんど知らなかった。

 冬季オリンピックによって、雪と氷の祭典にふさわしいファンタジックで、ロマンチックな町、というイメージができた。

 その冬季オリンピックから10年もたたないうちに内戦が勃発した。他国との戦争ではない。昨日まで同じ国民であった人間同士が、それぞれの「民族主義」を掲げて、凄惨な戦いを繰り広げたのである。

 日本人だけではない。世界の誰もが、あの「平和の祭典」は何だったのかと、思った。

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< 第一次世界大戦のきっかけとなったテロ事件発生の町 >

 大学受験で世界史をしっかり勉強した人は、冬季オリンピックや内戦以外に、もう一つ、サラエヴォについて知っていることがある。(私は、しっかり勉強しなかったグループらしい)。

 この町は、第一次世界大戦のきっかけとなった「サラエヴォ事件」の起こった場所である。

 1878年、ボスニア・ヘルツェゴビナの統治権は、オスマン帝国から、オーストリア・ハンガリー帝国に移った。

 1914年、ボスニア出身のセルビア人の青年が、サラエヴォを訪れていたオーストリア・ハブスブルグ家の大公夫妻を、ミリャツカ川に架かるラテン橋の上で射殺した。

 ( ミリャツカ川に沿う美しい街並み )

      ( サラエヴォ事件のあった橋 )

 このサラエヴォ事件をきっかけにして、オーストリア、ドイツ、オスマン帝国などの中央同盟国と、イギリス、フランス、ロシア、そしてボスニアなどの連合国とが戦争に突入した。

 ヨーロッパにおいて、「大戦」とは、第一次世界大戦である。一つの戦線だけでも、昨日は両軍併せて1万5千人が死傷した。今日は1万人が死傷した。明日は2万人の若者が死ぬか、障害者になるだろうというような、惜しげもない「人命の消耗戦」を、双方が繰り広げた。多くの青年男子が死に、生きて帰って来た者の多くも、障害者として生きなければならなかった。戦後、二度とこのような戦争をしてはいけないという反省が、ヨーロッパ中に沸き起こった。際限のない「人命の消耗戦」で、死ぬか、障害者になるのは、図上で作戦を立てるエリート将軍や参謀ではなく、若者たちである。このような戦争を二度とやってはいけない ━━━ という反省が、ヨーロッパにおける第一次世界大戦である。(第一次世界大戦を直接に経験しなかった日本は、同じこと── 人命の消耗戦 ── を第二次世界大戦でやった)。

 それでは、ヨーロッパにおいて、第二次世界大戦とは何であったのか?? それはホロコーストである。

 ヨーロッパにおいて、第二次世界大戦の死傷者は、第一次世界大戦の死傷者の10分の1にとどまった。

 ホロコーストとは、戦争の混乱の中で偶発的に起こってしまった事件 (例・南京事件) などとは、根本的に異なるものである。中国共産党は同じだとPRしているが、ちょっと経過を知っていれば、わかることである。

 ナチス・ヒットラーは、「民族の浄化」を掲げ、一つの民族(ユダヤ人)の「種」を根絶するために、工場を作って、計画的かつ大量に、地上から抹消しようとした。「アウシュビッツ」は、戦争の中で起こったが、戦争そのものではない。ヒトラーは戦争で「狂気」になったのではなく、「選民思想」「民族浄化」の「狂人」だったのだ。そのようなおぞましい思想と行為が、事もあろうにヨーロッパ文明の中から生まれた、という反省がヨーロッパにおける第二次世界大戦である。

 だから、クロアチアやボスニアで起こったこと、例えば、スレブレニツァの虐殺は、ヨーロッパにおいて、「民族浄化」のナチズムの延長線上でとらえられる。ヨーロッパにおいては、二度と見たくない行為であり、断固、裁かれるべき行為なのである。

 話を第一次世界大戦に戻す。大戦の結果、オーストリア・ハブスブルグは敗戦国となり、その支配を脱したボスニア人、セルビア人、クロアチア人らが、スラブ民族の王国を建てた。その王国は、第二次世界大戦を経て、ユーゴスラビア社会主義連邦となる。

 このような経過から、かのテロリストである反オーストリア民族主義の青年は、「愛国者」として大いに称賛された。彼が人を殺した橋のたもとには、彼の彫像や彼を称揚するパネルが麗々しく飾られた。

 この事件を説明するパネルは、今も橋のたもとのビルの壁に掲示されているが、今は ── テロ事件という歴史的事実を淡々と記述しただけのものに変えられている。

 テロリストを英雄視してはいけない。テロリズムの称賛は、国民の中にあるナショナリズムに火を付け、一端、火のついたナショナリズムは炎となって燃え広がり、やがては国を焼き滅ぼす。ユーゴスラビアの内戦は、それを証明している。

※ 時代錯誤も甚だしいが、テロリストの像を英雄として中国とともに建立したわが隣国も、随分、以前から、国民の中のナショナリズムの炎を、政府が制御できなくなってきているように見える。もともと歴代政府が学校教育で焚き付けてきた結果であるが、炎上・自爆しないようにしてほしい。

 ナショナリズムは、憎悪の感情である。

 隣国から飛んでくる憎悪の火に点火されないようにすることは、国内問題である。飛んできた火は黙々と踏み消すことが大切である。例えば、ヘイトスピーチを許さないこと。日本国と日本国民を守りたければ、このような憎悪の炎を燃え上がらせようとする行為を許してはいけない。また、在日韓国人を大切にするべきである。民族浄化は国を亡ぼす。

         ★

< イビチヤ・オシムのサラエヴォ

 92年からのボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のとき、サラエヴォはセルビア勢によって包囲された。近現代の戦争の中で、最も長期に渡る都市包囲であったと言われる。その包囲の中に、イビチャ・オシムの夫人と娘もいた。

 この包囲戦で、12000人が死に、50000人以上が負傷した。死傷者の85%は一般市民であった。

 イビチャ・オシムは、1986年に旧ユーゴスラビアの代表監督になった。(結果的に、ユーゴスラビア代表チームの最後の監督である)。

 民族の対立はもともと根深く、ユーゴスラビア代表の出場選手を決める際にも、歴代監督はさまざまな「配慮」をしてきたが、オシムは、スポーツはスポーツであり、出身民族に関する配慮は一切しないと公言し、実際、それを貫いた。そして、そのことによって、ユーゴスラビアのサッカー界で、誰よりも信頼された。

 (内戦が終わったあとも、3つの民族で構成されるボスニア・ヘルツェゴビナのサッカー界が内部で対立し、世界サッカー連盟から排除されたとき、これを説得し、一つの協会にまとめたのは、日本代表チーム監督を辞したあとのオシムであった)。

 彼に率いられた代表チームは、1990年のワールドカップでベスト8になった。準々決勝の相手はマラドーナを擁するアルゼンチンだったが、延長戦を戦い、最後にPK戦で敗れた。そのときのチームには、後に名古屋グランパスの名選手、そして監督として活躍したストイコビッチもいた。彼はセルビア人である。

 だが、翌年の91年には、スロベニアとクロアチアが独立宣言をし、オシムの代表チームから2国の選手が離脱した。

 92年には、自分の国であるボスニア・ヘルツェゴビナも独立宣言した。彼が息子とともに所用でベオグラードに赴いていたとき、ユーゴスラビア軍が独立宣言したサラエヴォに侵攻し、包囲した。夫人と娘はサラエヴォに閉じ込められた。オシムは事態に抗議し、代表監督を辞任する。

 以後、彼は、ギリシャやオーストリアで監督を務めながら生計を立て、夫人と娘はサラエヴォ包囲の中を生き延びた。オシムが夫人と再会できたのは94年である。

         ★

 我々を案内してくれたガイドの青年に、あなたにとってあの内戦は何であったか、と聞いた。少し考えて、彼はひとこと、「運命だった」と答えた。

 彼の家族や、親族や、友人が、どのような目に遭ったのか、知る由もないし、聞くわけにもいかない。しかし、まだ10代の前半であった少年にとって、それはそのように答えるしかないだろう、と思った。

 いや、オシムのような大人で、しかも、オシムのような賢人であっても、「運命」としか答えられないのではなかろうか?? 巨大な渦巻の中でもまれながら、最低限の誇りを胸に、ただ生き延びようとするほかに、何ができただろう……。

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< 夕刻、サラエヴォの中心街を歩く >

 サラエヴォの中心部の一角には、イスラム教の格式高いモスクも、キリスト教正教会の大聖堂も、カソリックの大聖堂も、たいして距離を置かずに、立っている。それぞれに美しい。

 

 ( カソリックのサラエヴォ大聖堂 )

 ( モスク入り口と手洗い場の井戸 )

 わずかな自由時間。イスラム教の寺院のそばにある町の公共トイレで、一行の中の一人の女性が財布をスラれた。順番を待って並んでいるとき、そばにいる若い女性が体を押すようにくっつけてきて、その女性が離れたとき、おかしいと思ってバッグを見たら、口が開けられ財布がなくなっていたと言う。

 手口から見て、ロマ(ジプシー)であろう。大阪のおばちゃんでも、日本人は優しすぎる。

 スリはサラエヴォの住民ではないだろう。たいてい、観光地を渡り歩く流れ者だ。自分もパリで愛用の一眼レフとレンズを盗られたことがあるが、その町とその町で生活している人々に対して、敬意を失ったことはない。

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 フェルハディア通りは、サラエヴォ一で第一のショッピング通り。全長1キロの歩行者天国である。

 ( フェルハディア通り )

  各国からの観光客もいっぱいの通りをぶらぶら歩いていたら、道に書かれた「Sarajevo  Meeting of Cultures」という文字が目にとびこんだ。そして、実際に、眼前に、突然、異なる文化が出現した。西欧的なオシャレなショッピング街が、突然、アラビアンナイトみたいというべきか、ネオ・ムーリッシュ風というべきか、あのモスタルで見たバザールのような商店街を高級にしたようなショッピング街になった。

 面白いと思った。ここは、本当に、異なる文化が共存する街なのだ。多分、その共存は、日本人が考えるような甘い、綺麗事の共存ではない。今も苦く、時に怒りや涙を伴い、握手できないまま肩を並べているだけなのかもしれない。

 1泊して、ゆっくりこの街の「空気」に触れたい、と思った。もう少し、町と人から、何かを感じたい。

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 バスに乗り、空港に向かった。

 車窓から見る夜のサラエヴォの賑わいは、大阪や、ローマや、パリと少しも変わるところのない大都会である。あの内戦の悲劇は、どこに行ったのかと思うほどに。

   ( 大通りに沿う商店街 )

 最後に、もう一人、日本人としては、書き洩らしてはいけない人がいた。

 緒方貞子。

 1990年、国連総会において、第8代国連難民弁務官に選出された。

 翌年、ユーゴスラビア内戦が勃発する。

 以後、連続して再任され、2000年に退官する。

 まさに、期せずして、ユーゴスラビアの内戦のために選出されたような人だった。

 様々な国籍をもつ部下、多くの国連職員を指揮し、大胆、かつ、繊細に、何千、何万という難民の命と向き合って、時には、いつ砲弾が飛び交うかわからないひと時の休戦の現場に飛び、両軍司令官と交渉し、ある時は、部下の殉職に涙を流し、不眠不休の活動をした。

 あのころ、日本の若者、なかんずく若い女子の尊敬する人の第1位は緒方貞子だった。誇るべき日本人である。

 あれから20年、日本の社会も、もうそろそろ「男社会」には縁を切るべきだ。そして、ぜひとも「1億総活躍社会」の実現を。日本そのものが「限界集落」化しないうちに。

         ★

 20時25分発、イスタンブール行きに搭乗。

 翌10月31日、早朝、イスタンブールを発ち、同日、夜、無事、関空に着いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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