一公の将棋雑記

将棋に関する雑記です。

谷川浩司九段は、現役中に「十七世名人」を名乗れるか

2013-01-16 00:24:27 | 将棋雑考
米長邦雄永世棋聖の逝去に伴い、谷川浩司九段が日本将棋連盟の会長に就任した。次期理事戦は今年の5月だから、それまでの繋ぎではあるが、会長職に変わりはない。
ところで「会長」といえば気になるのがその「肩書き」である。
大山康晴十五世名人は1976年12月に会長に就任したが、その1か月前の11月17日に、現役のまま「十五世名人」を襲位している。当時大山十五世名人は棋聖のタイトルを保持していたが、それはすぐ取られる可能性がある。そのとき、名人18期をはじめタイトル70数期の大山を、いまさら「九段」とは呼べないと、理事会が先手を打ったのだ(厳密にいえば、無冠時代の1973年に、「永世王将」を名乗ることを許されている)。
またこの時期、日本将棋連盟は東京・将棋会館に続いて関西にも将棋会館の建設に着手していた。寄付金集めのときに、会長が「九段」では格好が付かない…といった裏の理由もあったとされる。
では、今の谷川九段はどうだろうか。免状には「会長」名で揮毫するからいいとしても、職務では「九段」より「十七世名人」の肩書きのほうが、通りがいい。
ちなみに前会長の米長永世棋聖は1998年、A級から降級したときに、現役のまま永世棋聖を名乗った。米長永世棋聖が会長に就任するのはその5年後である。
さらにその前の会長の二上達也九段は、もともと永世称号を保持していなかった。
永世称号のほとんどは引退後に名乗るとされているが、中原誠十六世名人も現役中に永世十段を名乗ったように、現在は有名無実と化している。現在50歳の谷川九段が十七世名人を名乗ってもおかしくないのである。
でも、仮に理事会が谷川九段に、現役で十七世名人の襲位を認めても、本人は固辞すると思う。
谷川九段は若い頃、「将棋世界」や「近代将棋」で、自戦記を連載していた。そのとき大山十五世名人も登場していたが、私の記憶が確かならば、谷川九段は「大山15世」と表記していた。
当時名人といえば、中原名人か谷川名人だった。「棋界に名人はふたりもいらない」が谷川九段の持論だったのではあるまいか。だから自戦記では「15世」までで留め、「名人」まで書かなかった…と私は推測する。
その谷川九段が逆の立場になって、いまは森内俊之名人というれっきとした名人がいるのに、自分が永世名人を名乗るわけにはいかない、と思うのは当然の論理であるまいか。
蛇足ながら中原十六世名人だって、口には出さねど、自分が現役名人中にもうひとりの名人が生まれて、内心は面白くなかったはずである。だから自分が40代に名人を失ったときも、すでに大山十五世名人が亡くなっていたにもかかわらず、「永世十段」の肩書きで満足したのだと思う。
話を戻すが、谷川九段は、将棋ペンクラブ大賞贈呈式のスピーチの席でも、米長会長にお尻を向けて話をすることはできませんと、壇上の隅でスピーチをする奥ゆかしさがあった。
谷川九段が十七世名人を名乗るのは、現役引退後である、と断言する。
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ムリヤリの旅・5

2013-01-15 21:56:00 | 旅行記・その他の地域
「ただいまキャンペーン中で半額になるので、105円になります」
とお姉さんは言った。ただでさえ安いのに、これには心底感激した。店を出るとき、ドアに「新年キャンペーンで半額」の貼り紙があったのに気付いた。
磐城棚倉駅前の古本屋。実に良心的な店であった。
16時02分発のJRバス関東・白棚線に乗る。このバスはむかし、白河方面から乗ったことがある。しかしバスの右側に座ったので、道路の状態がよく分からなかった。今回は左側の前から2番目の席に座り、道路が正面に見える形になった。最高の席である。
バスはしばらく国道を走る。私は菓子パンを頬張る。やがてバスがキュッと進路を変え、専用道路に入った。ここは一般のクルマはもちろん、人も出入りできない。いわば透明の線路が敷かれているのだ。
何の変哲もない道路だが私は感激し、写真に収めた。きょう撮った写真はこんなのばかりだ。鉄道マニア以外の人が見たら、どこが面白いのかと呆れるだろう。
もっとも将棋だって、興味がない人が見れば、これと似たような感想を抱くに違いない。趣味とは概して、そういうものである。
途中にバス停留所があった。たぶん、戦前の駅名をそのまま使っているのだろう。
バスは一般道に戻る。これで終わりかと思いきや、少し走ってまたも専用道に入った。思ったより距離がある。私は改めて感激する。単線幅相当のアスファルト道がいい感じだ。私は70年近く前の白棚線に思いを馳せた。
昨年、東日本大震災が起こって、被災した常磐線の一部は線路を剥がし、バス道になった。鉄道マニアとしては忸怩たる思いだけれど、それが最善の方法というならば、全線バス専用道として機能してもらいたいと思う。
バスは再び一般道に戻った。国道が広くなり、あのあたりが廃線跡かと推測する。しかし先ほどの感激はもうなかった。
新白河駅前に着く。ここで降りてもいいのだが、ここは白棚線の名の通り、白河まで行くのが本筋である。私はそのまま乗り過ごした。16時58分、3分遅れで白河駅前着。
きょうの宿泊地は郡山である。つまり先ほどの水郡線をそのまま乗っていれば、郡山に着いたのだ。そこを磐城棚倉で下車して、わざわざ迂回ルートを辿るところに、廃線跡探訪の妙味がある。
郡山に向かう前に、白河駅前には、うまい蕎麦を食べさせる蕎麦屋がある。ちょっと早い夕食だが、私はそこに入った。
ざるそばとそば茶飯のセット(820円)を頼む。ざるそばは品のよい盛り具合で、ざるは竹製である。やはりざるはこうでなくてはならない。
美味しく食べて、白河駅に入る。駅舎は昭和初期のロマンを感じさせ、味わい深い。次の電車は17時32分で時間はないが、窓口で発作的に、西若松までの切符を買った。1,890円。これなら2日間有効なので、途中下車が可能になる。長い目で見ればトクになるという読みだった。
ところできょうは6時半からテレビ東京系で、太川陽介と蛭子能収のバス旅番組がある。毎回長距離の区間が指定され、路線バスを駆使して、4日間で踏破するものだ。路線バスが途切れていたり、早い時間に終バスになったりして、山あり谷ありの展開になるのがおもしろい。トラベルミステリーの趣もあり、旅好きには堪らない構成である。
宿もビジネスホテルが主で、晩ご飯はたいてい外で摂る。居酒屋などで乾杯し、ラーメンをすする。これが実に美味そうなのだ。
今回のマドンナは田中律子で、3時間半の特別バージョンである。これを旅先で楽しむハラであった。いつもの私なら夜の時間を移動に充てるのだが、今回は移動すればするほどおカネがかかる。早くホテルにチェックインしてのんびりするのもいいと思った。
東北本線に乗り、郡山18時07分着。郡山は昨年のいまごろも途中下車で訪れており、そのときは駅前のアーケード街にある中華料理屋に入った。チャイナドレス姿の女店員さんがいて感激したのだが、今回はパスせざるを得ない。
今夜の宿は「ホテルα-1郡山」。郡山にはもうひとつ、同じ系列の「ホテルα-1郡山東口」というのがあり、どちらにするか相当迷った。ここで両者を比較してみよう。

・郡山東口
1泊3,800円
駅から徒歩8分
レンタルパソコン800円

・郡山
1泊3,900円
駅から車5分
朝食無料(焼きたてパン、ドリンク)
パソコン無料

駅から近いのも魅力だが、パソコンの無料が決め手になって、私は「郡山」のほうに予約を入れたのだった。
ここからではホテルの場所が分からないので、スマホで問い合わせる。と、駅前からバスを利用するのが賢明でしょう、とのことだった。
ホテル方面行きのバスは18時25分である。その待ち時間がもったいないが、不案内な場所では、「急がば回れ」がベターである。私はじっと待った。
18時25分、9番バス停から、市役所行きのバスに乗る。しかしロータリーを抜けるところで5分が経ち、ここで「バス旅」を最初から観ることは叶わなくなった。
18時38分、7分遅れで安積黎明高校前着。すぐ左がホテルである。もどかしくチェックインを済ませ、私は部屋に駆けこむ。テレビの電源を入れ、7チャンネルに合わせる。すると、私が予期しない文言が出てきた。
(17日につづく)
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ムリヤリの旅・4

2013-01-14 20:37:32 | 旅行記・その他の地域
その整理券は5センチ四方のプラスチック製で、ボンネットバスのデザインがなされていた。ふつう、整理券は小さな紙片だが、ポケットに入れていて紛失することがたまにある。この板片なら失ならないし、不正もできない。いいアイデアだと思った。
私はきのう買った缶コーヒーを開ける。きょう摂った初めての飲食物で、これがこよなく美味かった。
バスから左右を眺めるが、廃線跡の痕跡は分からない。探訪の気分を味わうのみである。
12時33分、太田駅前着。すぐ前に、水郡線の常陸太田駅があった。私の記憶が確かならば、だいぶ昔、この駅に降りたことがある。しかし日立電鉄・常北太田駅を見た記憶はないし、いまの駅の雰囲気も違う気がする。
JRと日立電鉄では、駅名も微妙に違う。両者は少し離れた場所にあったのかもしれない。
当時私は、常陸太田駅から少し歩いたところにある中華料理店に入った。カウンターのみの席で、年配の姉妹?が営業していた。「これ一本で勝負してます」という感じのミソラーメンを食べたのだが、これがなかなか美味かった。値段も530円だったのまで覚えている。あれは常陸太田でのことではなかったのだろうか。
それはともかく、食事である。駅前の中華料理店に入って、偶然ながらみそラーメンを頼んだ。みそラーメンといっても千差万別で、醤油ラーメンに味噌を溶かしただけのモノもあるが、ここのみそラーメンは野菜もたっぷり入って、美味かった。店のお母さんに聞くと、現在の駅舎は数年前、場所を変えて新築したものらしい。
駅に戻る。乗るべき列車は13時11分発の水郡線である。JRの路線を「上」で表すと、下の横棒が常磐線で、右が大甕駅、左が上野駅方面、縦棒との交差地点が水戸駅である。
縦棒は水郡線で、上部が郡山駅。ちなみに「水郡線」の名は、水戸と郡山の1文字を取っている。短い横棒も水郡線で、通称・常陸太田支線である。この右側が常陸太田駅、縦棒との交差地点が上菅谷となる。
大甕から常陸太田まで鉄路で行くには、かなりの大回りになる。日立電鉄はそこをショートカットしており、それなりに重要な路線だったのだ。
水郡線の車両は、以前はモスグリーンで地味なイメージカラーだったが、今回はカラフルな車両で、面目を一新していた。JRの車両は、九州が群を抜いているが、東日本もなかなか健闘している。
13時26分、列車は1分遅れで、上菅谷に着いた。ここで郡山方面に乗り換える。次の列車は3両編成で、先ほどと同じキハE130系だった。
13時33分、上菅谷発。車内はほどよい混み具合で、私は立席を余儀なくされた。眼下には久慈川が右に左に流れている。ここ水郡線には、「奥久慈清流ライン」の愛称が付いている。
運転席後方に陣取っていたカップルが下車したので、私がそちらに移動する。立席の場合、特等席はここだ。単線の線路が先の先まで伸びていて、退屈しない。
15時18分、1分遅れで磐城棚倉に着いた。ここで降りる。きょうもうひとつ辿る廃線跡は、JRバス関東の白棚線で、ここ磐城棚倉から東北本線・白河までを結んでいる。
白棚線は戦前に全線開業したが、第二次世界大戦中に不要不急路線として休止になり、鉄部材としてレールを提供した。しかし戦後も鉄は戻されず、そのまま代行バス運転が続いた。
この白棚線で注目すべきは、廃線跡の一部がバス専用道として残っていることである。戦後はそのほとんどがバス専用道路だったが、国道の拡張などで徐々に距離が短くなった。その模様は、かつてテレビ朝日「ニュースステーション」の特集で観た記憶がある。
次の白棚線は16時02分発。その次は17時05分発だから、空が暗くなり、不可。その意味で、16時02分のバスは動かせなかったのである。どんどん遡ると、きょうは常陸多賀を11時50分に出る常磐線上りに乗るのが絶対だった。
まだ時間があるので、棚倉城跡まで足を伸ばすことにする。途中、パン屋があった。土曜日限定で1ヶ30円引きである。さらに歩くと、またパン屋があった。
城跡もいいが、以前訪ねたときはあまりおもしろくなかったので、途中で引き返す。私は両方のパン屋で、菓子パンを買った。
このまま駅前まで戻ってもいいが、その手前に古本屋があった。旅先での古本屋は魅力がある。入ってみると、コミックの類が豊富にあった。
驚くべきは値段の安さで、そのほとんどが105円か210円だった。古本を売るコツは、ズバリ、値段を安くすることだと思う。「東日本大震災の余震で、本棚から本が崩れる場合があるので、当分の間、立ち読みを禁止します」の注意書きがあるのがアレだったが、ここは1冊ぐらい買っていきたいところである。
じっくり選んだ210円のコミックを、レジに持っていく。するとレジのお姉さんが、意外なことを言った。
(つづく)
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ムリヤリの旅・3

2013-01-13 23:01:23 | 旅行記・その他の地域
この宿、テレビ朝日系「ナニコレ珍百景」で、「風呂場に大量のシャンプーが置いてある宿」として紹介されたことがなかったか!?
私は入浴を済ませると、宿のおばちゃんに聞く。回答ははっきりしなかったが、恐らくそうであろう(帰宅後、調べてみたら、その宿は九州地方にあり、私の勘違いだった)。
時刻は午後9時を過ぎたが、「鬼平犯科帳スペシャル」の放送時間にはほぼ間に合った。「鬼平」は、江戸の生活を忠実に再現しているところがいい。キャストの江戸言葉も小気味いい。「大工」を「でぇく」、「違いない」を「違ぇねえ」と言うところなんざ、粋じゃねぇか。
鬼平を堪能したあとは、スマホであすの宿を予約し、そのあとグズグズして、午前1時半ごろ就寝した。

明けて5日(土)。午前8時半、スマホのアラームで叩き起こされた。
さて、きょうは2つの廃線跡を探訪しようと思う。ひとつは、ここ常陸多賀から数キロ先の鮎川から、常北太田までを結んでいた日立電鉄である。
日立電鉄の利用客はそこそこあったと思うのだが、モータリゼーションの波に飲まれたのか、関連事業が大赤字になったからか、2005年4月1日、惜しまれつつ廃止となった。
きょうはこれから鮎川に赴き、常北太田まで代替バスに乗って廃線を偲ぼうというわけである。言うまでもないが、そのための常陸多賀泊まりであった。
9時半すぎに常陸多賀駅に行く。駅前から鮎川までのバスがあるはずだが、土休日ダイヤでほとんどが運休していた。この近辺はその名のとおり日立の関連企業が多く、土日の客はサッパリなのだろう。鮎川までは歩いて行くしかない。
日立電鉄はJRの南側、つまり太平洋の近くを走っていたが、そちら側に回るのが少しく厄介である。私は北側の改札口から2キロ東に向かい、築堤をくぐって南側に出た。ここまでで約30分かかっている。
この先は国道に出るから、その前に日立電鉄の廃線跡が現れるはずだ。お宝にめぐり会えるワクワク感、廃線跡探訪をした人なら分かるだろう。
先に書いたとおり、あたりは日立グループの建物が多い。国道が見えてきた。私の見立てでは、その手前に廃線跡がなくてはならない。…あった!! 国道に並行して、廃線跡が左右に延びていた。線路が剥がされただけで、路盤は綺麗に残っている。「警告・線路内、立入禁止」のミニ看板もある。線路を敷けば、すぐにも列車が走れそうだ。
私はひとり感激して、写真に収めた。
国道に沿ってしばらく歩くと、多賀病院入口バス停に着いた。現在9時55分。10時07分発のバスがあるが、鮎川まではもうすぐである。小さな商店があったので店主に聞くと、鮎川までは歩いて30分だという。線路跡は侵入不可なので、私は国道245号を歩いた。
左に廃線跡が続いている。やがてススキが路盤に浸食し、境目が分からなくなってきた。
やや廃線跡から外れてきたので、一本中に入る。廃線跡の砂利道に入ってしまった。隣接している工場(こうば)裏で洗い物をしていたおじさんに聞いてみる。
「すみません、そこの道から入ってきました」
「おおう」
「あのお、鮎川駅はまだでしょうか」
「この先を300mぐらい行ったところだね。でももう駅舎はないし、昔の面影は全然ないよ」
「ああー、そうなんですか」
「ガソリンスタンドの手前。いまは家が建っちゃってるから全然分からないよ」
「…。じゃあここから行かせていただきます」
「いいよ、誰も何も言わねえから」
私は、再び綺麗な路盤になった廃線跡を歩く。左手に常磐線が見えてきた。踏切跡がある。ここだけは線路がコンクリートに埋まり残っていた。ここも写真に撮る。
このまま進めば常磐線と合流する、というところで新築の家が数軒見えてきた。ここが旧鮎川駅跡である。常磐線・常陸多賀駅と日立駅の中間ぐらいに位置し、常磐線とは接続していない。事前に聞かされていなければ、ここが私鉄の終着駅(始発駅)とは誰も思うまい。
しばし感慨に耽ったあと、引き返す。鮎川から(常北)太田までの直通バスはほとんど出ていない。常陸多賀からひとつ戻った大甕(おおみか)から代替バスが出ている。朝、駅に設置してある時刻表を繰ると「日中は20~80分間隔」とあったが、正確な時間は分からなかった。
朝はのんびりしたのにアレだが、きょうはのちの時間の関係で、水郡線・常陸太田駅13時11分発の上り列車に乗るのが絶対である。
右手に「湯楽の里」なる看板があった。「露天風呂で太平洋を一望」というコピーには食指をひかれるが、その時間があるかどうか。
前方からジョギングの男性が来た。先ほどから気になったのだが、この手合いが多い。日立はマラソンが盛んなのだろうか。
先ほどのT字路に着いた。ここを右折すれば行きと同じルートで駅に着く。それは分かっているのだが、直進して廃線跡を味わいたいところである。
このまま行っても常陸多賀駅には着くのではないか。私は直進する道を選んだ。廃線跡は右手にそのまま続いている。しばらく歩くと、駅跡と思しきホームが見えてきた。これはどこの駅だろう。敷地内には、先ほどの「湯楽の里」の大看板が設置されていた。いよいよ露天風呂に浸かりたいが、ここで寄り道したら、きょう1日の予定が瓦解する。私は泣く泣く先を急いだ。
電柱の陰に、「1月20日は日立マラソンにつき、交通規制が敷かれます」の立て看板があった。なるほど、さっきからのマラソンランナーは、この大会の出場者だったのだ。
それにしても、常陸多賀駅はまだか。そろそろ合流してもいいはずだが。…あっ…!!
ひょっとしたら、先ほどのホームが旧多賀駅だったのか!? そういえば、朝スマホで調べたときに、「電鉄多賀」とあった気がする。基本の駅名は同じでも、会社が違うと全然違う場所にある、ということはよくある。東京でいえば、JR蒲田と京急蒲田がいい例だ。
次の道を慌てて右折する。美容院で駅までの道を聞くが、方角的には正しかったようだ。
途中、高架が外された日立鉄道の廃線跡が見えた。これが最後の鑑賞である。
JR常陸多賀駅の裏側に出て、歩道橋を降りたら、朝のスタート地点に戻ってきた。ときに11時42分。常磐線の上りは11時50分発、大甕着は11時54分である。
私は日立電鉄バス本社に電話をかける。聞くと、大甕からのバスは12時ちょうどだった。参考までにその次のバスを聞くと、13時35分だった。これは、けっこうあぶない乗り継ぎだった。誰にも指図されないのんびり旅なのに、なんでこんなトラベルミステリーみたいな行程になっちゃうのかと思う。
11時54分、大甕駅着。大甕駅は、駅前にすぐ県道が通っていて、その下をくぐるように階段が続いている、不思議な構造だった。
駅前のバス停でしばし待つと、太田駅前行きバスが来た。私は乗車して、整理券を取る。
…エエッ!? この整理券は…!?
(つづく)
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大庭美樹女流初段は、ソフトボールの宇津木妙子監督にちょっぴり似ている

2013-01-12 21:44:10 | 似ている
きょう1月12日は、大庭美樹女流初段のお誕生日。おめでとうございます!!
その美樹女流初段は、ソフトボールの宇津木妙子監督にちょっぴり似ていると思う。
宇津木監督は1953年4月6日、埼玉県生まれの59歳。中学生のときからソフトボールを始め、星野女子高等学校を卒業後、実業団のユニチカ垂井に入社。もちろんソフトボール部に入部し、日本ソフトボールリーグ1部で活躍した。1974年、世界選手権準優勝。
なお星野女子高等学校は、私が浪人時代、中学・高校用の防寒コートを販売するバイトをしていた折りに訪れた学校である。その高校で尿意を催したのだが、女子校なので男子トイレがなかなかない。やっとみつけて入ったら、薄い壁の向こうが女子トイレで、トイレットペーパーをカラカラやる音が聞こえてきて、妙に緊張した覚えがある。
宇津木監督は1985年に現役引退。その後、日立高崎の監督を務め、日本代表監督にも就任した。1998年、世界選手権銅メダル。2000年、シドニーオリンピック銀メダル。2004年、アテネオリンピック銅メダル。
現在、東京国際大学・女子ソフトボール部総監督。
冒頭に書いたが、美樹女流初段と宇津木監督は、顔はあまり似ていない。しかし宇津木監督がサングラスをかけると、妙に美樹女流初段に似てくるのである。
美樹女流初段はプロ野球(千葉ロッテマリーンズ)の大ファンであるし、「似ているシリーズ」に加えてよいと思う。
美樹女流初段は理事職が忙しく、公式戦は思うような結果が出せていない。しかし右玉が得意という異質な将棋は、女流棋界にとって貴重である。今後の頑張りに期待したい。
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