わたくし、太平洋戦争の後半はよく知りませんでした。
それは、過酷、凄惨に目をそむけていたせいです。
しかし、そんな歳はもはや過ぎましたね。
ペリリュー島がパラオ(現在のパラオ共和国)にあることも
知りませんでした。マップでは、左下に小さくありますね。
この島に、膨大な艦船と兵士が攻める。写真は艦砲射撃。
“凄惨”は、この現場にとどまらないのです。
この戦闘で軍部は玉砕(バンザイ攻撃)の方針を変える。
ここから、日本軍は持久戦に変えた。
これは、このあとの戦闘をどう変えたか。
一方、アメリカ軍も混乱していたようだ。
マッカーサーとニミッツの対立がひどく、方針が定まらなかった。
ペリリュー島の上陸当日・9月15日、なんと同日にマッカーサーは
率いる南西太平洋方面軍の陸軍部隊でレイテ島に上陸する。
これは、ペリリュー島の闘争が戦略上で意味を失なった瞬間でもあった。
しかし、アメリカ軍の上陸部隊は勇猛果敢であったらしい。
ペリリュー島の上陸部隊は、ガダルカナル島の戦いによりアメリカ軍最強とうたわれ、
ニューブリテン島西部でのグロスター岬の戦いも経験し、日本軍相手に敵前上陸とそれに
続く激しい攻防戦での戦訓を得ていて、強大化され士気も旺盛な第1海兵師団 が担当する
こととなった。その師団長ウィリアム・リュパータス海兵少将は、ガダルカナル戦当時は
准将で同師団の副師団長としてツラギ上陸部隊を指揮し、ニューブリテン島では師団長
として戦闘を経験していた。リュパータス海兵少将は、2、3日でケリがつくと云ったらしい。
「バンザイ攻撃」しない、持久戦の整っていた日本軍とすでに戦略的価値を
失い、掃討命令を実施する自信満々のアメリカ軍の、まさに死闘であった。
日本軍の組織的抵抗が終わり、11月27日、米軍はペリリュー島の占領を
果たすこととなるが、それは上陸開始から2ヵ月半が経過しての事である。
その激しさのデータのひとつ。
アメリカ軍:戦死者 1,794名 戦傷者 8,010名 ※この他に精神に異常をきたした者が
数千名いた。
日本軍:戦死者 10,695名 捕虜 202名 最後まで戦って生き残った者34名。
アメリカ軍には「精神に異常をきたした者数千名」とありますが、
日本軍には、いないのではなく、ほぼ全員死亡に近いのですね。
ジョン・ダワー教授の発言に、さまざまのことを知った。
このあとの、
本土空襲・硫黄島の戦い(1945年2月19日 - 1945年3月26日)
・沖縄戦(1945年3月26日 - 6月20日)、などへと引き継がれていく。
これらを、知らなかった。
こんなエピソードも知らなかった。
「パラオのジャンヌ・ダルク伝説」ですと。
芸者がパラオの中心地のコロール島からペリリュー島にやってきて日本軍と
一緒に戦い最期は機関銃を乱射アメリカ兵86人を死傷させ玉砕したという伝説である。
ちょっと不謹慎か。
もうひとつ。
東郷平八郎を尊敬するチェスター・ニミッツの詩文とされる文字列が彫り込まれている。
「諸国から訪れる旅人たちよ この島を守るために日本国人がいかに勇敢な愛国心を
もって戦い そして玉砕したかを伝えられよ 米太平洋艦隊司令長官 C.W.ニミッツ」
というものです。定かではないらしいが、ニミッツ提督はこのときの
日本軍に感銘を受けていたのは事実らしいようだ。
ペリリュー島の島民の犠牲者は0・ゼロ名だったことも重要だ。
(8.13.22:00- 1ch.「狂気の戦場ペリリュー 太平洋激戦の島の記録未公開フィルムの衝撃 錯乱する兵士は…」。
8.15.21:00- 8ch.「“命ある限り戦え、そして生き抜くんだ”玉砕は認めない! 男がとった生き抜くための秘策
激戦の地パラオで起きた70年前の知られざる真実の物語」)