eihouji.
松岡心平さんの「中世を創った人びと」に刺激を受けてお盆休みの最後。多治見インターチェンジ降りて10分、夢窓疎石さんが建立した永保寺に行ってきました。
まさに中世の始め、明治維新に匹敵するような 大きな思想革命のうねりをもろにかぶっています。
南宋(1127-ー1279)の爛熟社会が生み出した新しい儒教や仏教、宗学や宗朝禅の思想が、大量の唐物とともに 日本にとうとうと押し寄せて来た鎌倉時代中頃です。
鎌倉時代後半は、元の侵略を実際に受け その猛威に怯えました。
しかし 元は、世界に向って開かれた交通国家であったため、南宋時代よりも物品や人物の交流は盛んになりました。
栄西、道元などの日本の秀才は禅坊主となって中国へ渡りました。
1275年生まれの夢窓疎石が禅僧になったころには中国から既に蘭渓道隆などが来日していました。
「中国へ行っても自分ほどの師匠はいないよ」って、言い切った夢窓疎石。
すごい!!!
39歳のとき多治見を訪れ 幽居の地と定め 3年滞在しました。
国宝 観音堂は修復中ですが、国宝 開山堂と並んで、禅修行のお寺らしく檜で素朴に拭いた屋根です。
六角堂の下から、流れ落ちる湧き水が、池に注いでいます。
岩肌の前面は削れれていて、緑との対比も綺麗。
秀才だった夢窓ですが、古代的な蒼々たる地霊の響きを聴き分け これを表現する才能も持っていました。
その上 禅問答でも、明晰明快で、近代的明晰なロゴスの声も同居していました。
この振幅の大きさが鎌倉時代末期から南北朝期にかけてのバサラの時代の人間の特徴であり 夢窓の魅力でもあった。
一方 北朝の花園天皇は夢窓に対して厳しい批評を残しています。
夢窓が宮中で禅の質問に対してよどみなく答えるのを聴いて「こんなのは禅じゃない 夢窓はただの学問だ」
日本の山河が語りかける古代の声と中国禅のモダンとを衝突させ 融合して庭をこしらえ、書 和歌 連歌 声明にも優れ 希代のカウンセラーであり かつ 経営の才もあった夢窓には、最晩年 13000人もの弟子がいたといいます。
これら松岡心平さんの文章を噛み締めて永保寺を見ると、感慨も一段と深くこころに染み入りました。
松岡心平さんの「中世を創った人びと」に刺激を受けてお盆休みの最後。多治見インターチェンジ降りて10分、夢窓疎石さんが建立した永保寺に行ってきました。
まさに中世の始め、明治維新に匹敵するような 大きな思想革命のうねりをもろにかぶっています。
南宋(1127-ー1279)の爛熟社会が生み出した新しい儒教や仏教、宗学や宗朝禅の思想が、大量の唐物とともに 日本にとうとうと押し寄せて来た鎌倉時代中頃です。
鎌倉時代後半は、元の侵略を実際に受け その猛威に怯えました。
しかし 元は、世界に向って開かれた交通国家であったため、南宋時代よりも物品や人物の交流は盛んになりました。
栄西、道元などの日本の秀才は禅坊主となって中国へ渡りました。
1275年生まれの夢窓疎石が禅僧になったころには中国から既に蘭渓道隆などが来日していました。
「中国へ行っても自分ほどの師匠はいないよ」って、言い切った夢窓疎石。
すごい!!!
39歳のとき多治見を訪れ 幽居の地と定め 3年滞在しました。
国宝 観音堂は修復中ですが、国宝 開山堂と並んで、禅修行のお寺らしく檜で素朴に拭いた屋根です。
六角堂の下から、流れ落ちる湧き水が、池に注いでいます。
岩肌の前面は削れれていて、緑との対比も綺麗。
秀才だった夢窓ですが、古代的な蒼々たる地霊の響きを聴き分け これを表現する才能も持っていました。
その上 禅問答でも、明晰明快で、近代的明晰なロゴスの声も同居していました。
この振幅の大きさが鎌倉時代末期から南北朝期にかけてのバサラの時代の人間の特徴であり 夢窓の魅力でもあった。
一方 北朝の花園天皇は夢窓に対して厳しい批評を残しています。
夢窓が宮中で禅の質問に対してよどみなく答えるのを聴いて「こんなのは禅じゃない 夢窓はただの学問だ」
日本の山河が語りかける古代の声と中国禅のモダンとを衝突させ 融合して庭をこしらえ、書 和歌 連歌 声明にも優れ 希代のカウンセラーであり かつ 経営の才もあった夢窓には、最晩年 13000人もの弟子がいたといいます。
これら松岡心平さんの文章を噛み締めて永保寺を見ると、感慨も一段と深くこころに染み入りました。
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