裸婦の中の裸婦 (文春文庫) | |
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文藝春秋 |
この本は 彼にとって白鳥の歌ともいえる作品で、表紙のデルヴォー「民衆の声」から3章は 癌で執筆できず 友人の巌谷國士さんが意を汲んで仕上げています。
面白い対話形式の記述になっていて、一章づつ 女学生が相手であったり オジサンが相手であったりします。
澁澤さんにとって、選び抜かれた裸婦像 好みの裸婦像について解説されます。
「どんな芸術的な裸婦画だって ポルノグラフィーと変わらぬ催淫性の効果はあるんだよ 催淫性だけにとどまっていないところが、、、」
と述べてます。
幼虫としての女には バルチュス「スカーフを持つ裸婦」が選ばれ、エレガントな女には クラナッハの「ウェヌスとアモル」が選ばれているっていう感じです。
すべて 猥雑感をそそることと 気品のある事とは ちっとも矛盾しない!っていう視点から見ています。
気品が侵されるから猥雑感が出てくるんだと、、、。気品はワイザツ感が成立するための前提条件とまで 女学生に言わせてます。
興味深い章が続きますが、
第5章 うしろ向きの女 ベラスケス「鏡を持つウェヌス」では、なんとスペインでは18世紀までこの作品と、ゴヤの「裸のマハ」2枚だけしか裸体画が描かれなかったという禁欲性が知らされます。
そして、サド侯爵が大好きだったこと、サドはバック派だったのだ、あなたはどちら??とまで、問い掛けます。
そして、なんと「ミカエルの菱形」という、美人の最高の条件である お尻と腰のえくぼのあり方が明示されるというサービスぶり。
とても女神とは思えないほど自然なポーズを見せている このベラスケスの絵 見るしか無いですね。
第8章 デカダンな女 は、ヘルムート ニュートンの写真集 秘められた女たちから「裸婦」が取り上げられています。
モデルは あのナチの兵士たちに支配され おもちゃにされる映画「愛の嵐」の主人公 シャーロット ランプリング。
「ヴォーグ」「エル」「マリークレール」「プレイボーイ」と違い サド マゾヒスティックなシンボル写真をはじめて導入したヘルムートニュートンの位置付け。
バロック的感覚を復活させたという意味でもヴィスコンティの美学に通じると断じます。
もうひとつの未完作品「澁澤龍彦の古寺巡礼」も どんな切り口か??????
楽しみになりました。