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今日は今日

2014-05-24 12:37:43 | 日記・エッセイ・コラム
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   水田に  蛙鳴蝉噪  こだまして  有明の下  愛の営み
                                      ひのひら  ろくべえ





    曇り空の下、近所の田んぼ畦道を散歩してみると、田んぼに水がはられ

  水面に新緑が映り込み、その中でカエルたちが、大合唱を繰り返していまし

  た。毎年毎年繰り返される光景ではあるのですが、その度にどことなく新鮮

  さを感じたり、新たな自分を感じたりするのは何故なんでしょうか。

    去年も今年も変わりないと思っているのは自分だけ、昨日の自分は今日

  はいません。昨日は昨日、今日は今日なのではないでしょうか。いつも同じ

  自分などと思い込んでるのは自分だけ、そうではなく日々成長してる自分と

  いうものを、認め、昨日よりも今日、今日よりも明日と成長を意識したいです。

  過去に生きるのではなく、将来に向かって生きるとは、そのようなことではな

  いかと感じています。

     これからますます暑くなります、水分補給をこまめにとり、暑い夏を快

  適に過ごす、自分の方法を見つけ出し、実りの秋を迎えたいものです。

     しばらくの間、ブログの書き込みを休みます。あしからず。


愉しさ

2014-05-23 18:16:33 | 日記・エッセイ・コラム
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爽やかな  風吹きぬける  春目覚め  水面顔出す  亀の恋かな
                                        ひのひら  ろくべえ






     「屋烏の愛」という言葉がある。愛が深まると、そのひとに関係する物にまで

   愛情が及ぶことの例え(広辞苑より)だそうな。つまり、人を愛するあまり、その

   人の屋根に止まっている不吉な鳥である烏まで好きになってしまう(広辞苑より)

   という意味らしい。確かに人を好きになるという事は、その人の頭の先から足の

   先まで、小さな仕草までもが、好きになるという事であろう。という事は、多くの

   人の良きことを見つけ、その人を好きになるという精神的なことが、人間関係も

   左右するという事ではないだろうか。この言葉の反対側に「坊主憎駆れば袈裟

   まで憎い」という諺がある。人に憎しみを持てば、その人が身につけてるものま

   で、憎くなるという事であろう。という事は、自分の精神をどちらに置くかで、その

   後の人間関係も変わってくるという事になる。小さな小さな情報によって相手を

   判断し、嫌う事になることは、後の人間関係で、知らず知らずのうちに、損失を

   していることにもなる。損失に気づかない人は、愚痴や不満ばかりを並べること

   になってしまう。

     逆に、相手の良き所に注目でき、相手を好きになると、その後の人間か関係も

   良好に発展するという事になる。自分がどちらを選ぶかは自分次第だが、愉しく

   人生を送ろうと思うと、自然どちらを選ぶかは決まり切ってくるのであろう。人を

   深く知ることで、日常も愉しくなることを実感したいものである。


冷房

2014-05-22 18:07:48 | 日記・エッセイ・コラム
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    灰色に  覆われし空  雨の前  新芽はしゃいで  お祭り前夜
                                          ひのひら  ろくべえ







    天気は不安定だが、暑さは夏に近づくことを実感できる暑さとなりつつある。

  今日の通勤電車も、冷房が入っていた。夏も近づく冷房冷えるという日が続く

  ことを、思い浮かばせてくれる。冷房と言えば、温度感覚が人間一緒でないため

  集団で過ごす部屋の温度管理は特に大変な時期となる。暑いと感じる人が一度

  下げると、寒いと感じる人が現れて、一度温度を上げる。すると暑いと感じる人が

  また一度下げる。するとまた一度上げる人が現れる。クーラーも大変である。一日

  中、あげられたり下げられたり。なんだか落ち着かない日を過ごすことになる。クー

  ラーの気持ちにもなってみたらと思いたくなるほどでもある。人間という動物がいかに

  我がままであるかという事では荷だろうか。寒いのであれば上着を一枚余分に羽織る

  熱いのであれば一枚脱ぐといったことを準備もしていないし、やろうともしない。置かれ

  た状況の中で、受身的に環境を自分に合わせようとする。傲慢で我儘に極みであろう

  多くの人を受け入れる人間力が優れている人なのに、自己主張する人のほうが優れて

  いる感の価値観が存在する。しかしこの価値観は単に我儘だけなのであって自慢でき

  ることでも何でもない。大切なことは「如何に周りの人と共存できるかという事が大切な

  のであることを、反面教師として学びとしたいものである。


2014-05-21 18:18:47 | 日記・エッセイ・コラム
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ピィチャピィチャと  雨だれの音  夢覚める  今日も始まる  生きる遠泳
                                            ひのひら  ろくべえ





    今日は目覚めたときから雨、昼からは爽やかな晴れと変化した一日でした。

  雨というものは現代人にとっては、あまり喜ばしいことではないようである。天気

  予報見たり聞いたりした時の反応がそれを現している。「明日雨か・・・・」とか「雨」

  というように、なんだか受け入れがたい表現であらわされる。不思議ではない、そ

  れほど現代という時代は、水というものに弱い社会となっているのかもしれない。

    諺に「雨は花の父母」というのがある。つまり雨が花を養い育てる、父であり母

  である。という事を現しているのであろう。これは人間を含むあらゆる生物に言える

  ことなのだが、人間は自分の目先の不自由さだけで、嫌う傾向にある証拠であろう。

  水はなければならないもの、その水は雨という自然現象がもたらすもの、そのことを

  理解はしているが、雨の日を嫌う。雨なければ水もなし、生きていくことすらできない

  雨にもう少し感謝をしながら生きたいものである。雨は花だけではない地球上に存在

  する全ての物の父母であろう。そのことを忘れてはならないことではないだろうか。

  禽獣草木、すべてに雨は恵みを与えるもの。雨を好きになりたいものである。
  



石に立つ矢

2014-05-20 18:21:42 | 日記・エッセイ・コラム
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   稜線や  霞の中に  雨の前  暑さ閉じ込め  蒸し風呂如し
                                     ひのひら  ろくべえ







    「石に立つ矢」とい諺がある。これは、心を込めて何事も行えば、できないことはない。

  という意味を含んでいるそうな。確かに精神的には心を込めるとか、念じるという事は大切

  なのであろうが、それだけでは、「石に矢が立つ」という事は不可能なのかもしれない。精

  神的なこと、言葉として持つのはいいのかもしれない。しかし念じるだけでは物事というも

  のは、うまくいかない。ではどのようにすれば念願かなうのであろうか、こんな諺もまた存

  在する。「雨だれ石を穿つ」この諺は、どんなに小さな力でも辛抱強く続けていれば、いつ

  かは願いは叶うという意味だそうな、ほかにも「門前の小僧お経をよむ」というのもある。

   つまり、理想的には、念じながら毎日毎日少しづつでも、そのことにかかわることを続ける

  という事が大切なんではないだろうか。石に矢が立つかどうかは解らないが、そのような気

  持ちで物事に励めという事なんであろう。具体的に毎日毎日繰り返すことを、自分で選択し

  そのことをあきらめず、慌てず、焦らず、実行する力こそが人間力と言うものに繋がるので

  あろう。人間力を磨くことこそが、人生の目的この目的を果たすために、日々の目標という

  もの大切にしたいものである。