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迷歩録   たやすい

2017-07-31 15:21:17 | 日記
  文月に  草木も枯らす  猛暑かな  けだるく過ごす  静寂の昼


                                <strong>ひのひら  ろくべえ





     「たやすい」(容易い)とは、苦心を必要としない、わけなくできる、むずかしくない、かるがるしい、軽率である。

    などの意味がある(広辞苑)物事を難しくする必要はないが、簡単でないものも存在するのも事実ではないだろうか。

    人間は生まれて最初に食べるという行為を身につけ、その次に排泄を覚え、その次に言葉によるコミュニケーションを

    覚える。このコミュニケーションこそがその人の一生を左右する。しかし誰もが「たやすい」と思い込んでいるのではな

    いだろうか。「たやすい」が上に、念入りに丁寧に学習する必要があるのに、それほど重要視しないままに教育は行われ

    ているのではないだろうか。

     人は、コミュニケーションで関係性を保ち、その関係性を頼りに社会生活を営む、その基本となるコミュニケーション

    「たやすく」はないことを、青年になって知ることとなる。その難しさが手かせ足かせとなって、活動性を低下させるこ

    とにもなりかねない。そうならないためにも「たやすい」ことの難しさを早くから難しいと意識して教育を行う必要があ

    るのではないだろうか。また難しいと気づいたときに、最初から学習できるコミュニケーション実践学習の場と言った所

    必要性を感じる。

     夏休みが終わると一部の学生が不登校を起こすと聞いたことがある。その理由はコミュニケーション不安だと聞く。つ

    まり、教える大人たちがコミュニケーションは「たやすい」と感じてはいないだろうか。できて当たり前と思っていない

    だろうか。その感覚こそが問題という事を意識しているだろうか。相手の気持ちを察し、自分の気持ちを伝えるその一言

    に誤解が生じる。それがコミュニケーションというもの、完璧がすべてと教える教育では、人と人の間ののりしろは伝え

    られない。対人援助の中心いある教育という問題を避けることはできない。その教育の中心にあるのがコミュニケーション

    なのではないだろうか。

     コミュニケーションは「たやすい」などと言う感覚ではなく、繊細に配慮した教育の中で生まれるものという感覚を持っ

    て行なってほしいものである。

     勿論、福祉や医療の現場での教育も同じ事ではないだろうか、任せておけではなく、共に生きるためにどうするかを考え

    コミュニケーションを発展させ、互いに生き抜くことができる社会を目指したいものである。

     この世の中に「たやすい」ものなどない。「たやすい」などと感じるのは自分の驕りでもある。丁寧に慎重に物事を捉え

    勇気をもって行動できる自分となりたいものである。

迷歩録   夏

2017-07-29 08:42:19 | 日記
             






       盛夏本番

       夏歌うものは冬になく

       諺である

       働くべき時に働かないでいると

       後で、暮らしに困る

       そんな意味の諺

       今風に言えば、若い時に働き

       老後は穏やかに暮らすとも

       とれるが、今の時代なかなかそうともいかない

       一生夏歌うで過ごさなければならない

       暑い夏にあくせく働くよりも

       涼しくなってから、働くというのも一つの考え方

       どちらを選ぶかはあなた次第

       夏の虫、氷を笑う

       見識の狭いこと、無知な事の例え

       夏の虫は夏しか知らない

       冬の氷などは見たことも聞いたこともない

       氷自体を知らない、

       自分のある存在の場所、関係のある所しか

       知らない。そのことが見識の狭さなのである

       夏は日向を行け、冬は日陰を行け

       つまり自分を追い込んで鍛えよ

       しかしこの諺は、今の時代無理があり

       合理的でもない

       夏は涼しい所で能率を上げ

       冬は暖かい所で能率を上げる

       このことが理に適っている

       どちらを選ぶかは自分次第

       盛夏を楽しく乗り切りたいものである。

迷歩録   きゅうか

2017-07-28 15:25:23 | 日記
  雲深く  湿度切り裂く  蝉の声  動く背中や  張り付く衣服


                                 ひのひら  ろくべえ



     九夏三伏(きゅうかさんぷく)という言葉がある。一年の中で最も暑い土用のころの事、夏の九十日間

    三伏は夏至以降の極暑の期間の事らしい。まさに今の時期ではないだろうか。この九十日間を過ぎれば
    
    実りの秋がやってくる。この極暑の時期をどのように過ごすかが大事となるのではないだろうか?

     熱中症との戦いである、対人援助職の者は、常にクライアントの健康状態に気配りをしなければならない

    ことは当たり前であるが、それも事後対処ではなく、予防的対処がとても大切である。しかし、予防という

    事は、何も起こさないという事ではあるが、起きなくて当たり前だからそれほど評価も受けないことになる。

    評価を受けることの発想では、地道な活動ということになるのだが、その活動こそがクライアントの命を守

    るということに繋がるのである。

     予防はリスクマネージメントが如何に整っているかということになる。
     
    何事も予防という事がとても大切と言う事ではないだろうか。暑さ対策もその時々の対処ではなく、このよ

    うになったら、こうなったら、どのように対処するかなど常日頃から対処方法を議論検討しておかなければ

    ならない、それがリスクマネージメントと、危機管理と違う所である。

     対人援助の現場は常にリスクマネージメントを議論検討しながら日常ケアを組み立てる必要があるのであ

    る。このことがスムーズにできてこそ対人援助の現場ということになるのではないだろうか。

     九夏三伏の時期、暑さに対するリスクマネージメントをしっかりと組み立てておく必要がある。そのこと

    が、命を守ること、忙しいなどと会議をサボタージュしていないだろうか。護れて当たり前をつくりだした

    いものである。

迷歩録   むし

2017-07-27 13:06:37 | 日記
  <strong>灼熱に  耐える桃色  百日紅  朝靄の中  朝日に映える



                               ひのひら  ろくべえ




    コミュニケーションの方法に、意味を持つ無視と意味を持たない無視が存在する。意味を持っ無視は相手が

   無視されたことを考える力がある時、あるいはその現象についてなぜだろうと、追求することができる時では

   ないだろうか。この場合は無視したことの行動が大きな利益を生むことになるが、意味を持たない場合は、無

   視したことが相手に不快を与えることになってしまう。特に無視する側が、感情的無視を行った時、その結果

   は人間関係まで壊れてしまうことになってしまう。意味なしの無視行動と言う事になってしまう。このように

   無視というコミュニケーション技術は非常に難しいが、多くの対人援助者は、感情的無視を使う事が多いので

   はないだろうか。

    コミュニケーションは相手があって存在するもの、それ故に相手に伝わることが大前提であるにも関わらず

   そのことを重要視しない、国会討論のようなコミュニケーションはあり得ないのである。

    つまり無視という最上級に、「記憶にない」という返事を繰り返す人とのコミュニケーションが成り立つわ

   けがないのに、そのことを知って「記憶にない」を繰り返す、そのような対応をする団体を信頼せよと言う事

   に無理がある。

    そのような政党を支持しろ、国民のために努力をしていると言っても信じられるわけがない、このような言

   動を驕りと横暴な言動と言わずして、なんというのであろうか。

    対人援助の場でも、感情的無視をする援助者を信用しろと言われてもクライアントは信じがたいであろう。

   まさに政治の場も、対人援助の場も、コミュニケーションとしては同じである。人の振り見て我が振り直せで

   ある。

    無視というコミュニケーションテクニックは、その意味がある時だけ活用すべきではないだろうか。
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迷歩録   はざま

2017-07-26 13:48:05 | 日記
 <strong> 木陰にて  暑さしのぎて  一休み  流れる汗や  冷やすそよ風


                                  <strong>ひのひら  ろくべえ



    <strong>「はざま」とは、物と物との狭い所、谷あい、あいだ、(広辞苑)とある。つまり間という事ではないだろうか

    昨日の国会閉会中審査という中継放送を見ていて、感じた公人と私人の「はざま」で質問したり、答弁で応えたり

    時には異次元の人物となり、記憶を無くしたり、この国会で何を伝え、何を知ってほしいのか、国民を見下げた、

    「ね」語尾の言葉を繰り返す人たち、公人としてその場に立ってるにもかかわらず、個人的には知らない、記憶に

   ないなどを繰り返す。そのような事を国民は知りたいわけではなく、如何に真摯に問題解決、経緯を知りたいだけな

   のに、ご都合主義的に私人と公人を使い分けての議論には、国民はうんざりしたのではないだろうか。国民の印象は

   茶番劇と映ったのではないだろうか。

    私人と公人の「はざま」で誰も社会生活を営んでいる。そのことを自覚している人は少ないであろうが、このこと

   を自覚して働く必要があるのではないだろうか。

    対人援助の場でも、働いている時は公人である。公人として意識した言動を心がけることが大切であるが、そのこと

   を理解していない人も多いのではないだろうか。つまり個人的価値観でケア計画やアセスメントを行っていないだろう

   か、個人的価値観ではなく、チーム価値観を理解したプランというものを立案しなければならないのだが、個人価値観

   的プランになってしまうと、そのプランをできる者と、てできない者が、現れることになる。これではいくら素晴らし

   いプランでも役に立たないのではないだろうか。

    つまり、公人としての援助者は、援助者の個人的問題価値観だけでなく、チームとしての価値観やレベルというもの

   を把握している必要があるという事ではないだろうか。

    これがチームケアというもであろう。チームケアという事であれば、スタッフは働いている時は公人という立場を堅

   持しなければならないのである。そのためにも個人的に努力をしなければ、私人の領域を出ることはできなくなってし

   まう。公人と私人の「はざま」で右往左往するだけの者になってしまう。そうなってしまうと、仕事そのものに嫌気が

   さし、対人援助という素晴らしい職業を失う事にもなってしまう。そうならないためにも日頃から、公人と私人を整理

   して考え、その「はざま」に落ち込まないように心掛けておくことが大切ではないだろうか。

    その時々で公人であったり私人であったりする、今の時点はどちらなのかを自覚した言動が大切ではないだろうか。