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迷歩録  道

2015-10-29 13:47:12 | 日記
  満月に  曝されて進む  伝馬船

        どこへ向かうか   水平線や


           ひのひら  ろくべえ










      小説家武者小路実篤は、「この道より我を生かす道なし、この道を歩く」と言った言葉を残して

     いるらしい。このような境地になるまでは時間がかかる。石の上にも三年、継続は力なりなどとい

     う言葉を胸に刻みながら続けるその到達点が三者の小路実篤の言葉となるのかもしれない。

      このブログの題も迷歩録、つまり迷い歩くそのことを記録するという意味である。人生生きてい

     れば迷って当然その迷いを受け止める力こそが対人援助職に求められる人間力なのかもしれない。

     朝に思い立ったことが昼には変わるという事はよくあることである。そういった人間だからこそ集

     団の中ではシステムが必要なのである。国に憲法、法律があるように組織にも秩序とルールがあっ

     て始めて組織として成り立つ。その組織の中で互いを尊厳し、相手の自尊心を傷つけない配慮をす

     る。そんな細やかな関係性をつくる過程にチームワークと言ったものが生まれるのではないだろう

     か。秩序もない、マナーもないそんな組織があるとするならば、その組織は形合ってないが如しで

     あろう。対人援助の組織はそうであってはならない、社会性、集団性のモデル的位置を構築できる

     よう配慮しなければならないのではないだろうか。

      今日の朝刊に介護職場の人の定着率が悪い、労働条件の悪さが問題ではないかという意見を載せ

     ている人があった。対人援助の代表的な職場で、労働条件改善に進めない日本の実状社会保障や、

     教育と言った対人援助の組織が根底から崩れて行くそのような状況にあるのではないだろうか。

     組織の内部から立ち上がり理論を構築して、組織の大切さ、人の大切さを基本い組織を考えて

     みたいものである。

      道は一筋、明日も歩く。

迷歩録  目配り

2015-10-28 09:58:24 | 日記
  秋雨に  打たれ喜ぶ  野菜かな

     魚の如く  畑を泳ぐ

              trong>ひのひら  ろくべえ






   大和言葉に「目配り」というのがある。簡単なようで難しい、難しいようで簡単、

  それぞれ個人によって、その価値や方法が違う。特に対人援助の場で集団を相手と

  する時、その効果は発揮できるのであるが、個人差が激しいため、何を基準にその

  行動が、できているのかできていないのかどうすればいいのかなど曖昧のままに使

  われるのがこの大和言葉ではないだろうか。例えば「見守り」などと言う言葉に変

  化して使われる。これって何をどうする事と言ったことは、誰も教えてくれないし

  指導もしてくれない。どうしていいかわからない時「見守りで」という結論を遣っ

  たりする。このことは周りの人は何をどうすればいいのか、見てればいいのか、見

  てるだけでいいのか、どうすることなのかクライアントの状態にもよる複雑なかか

  わり方なのに、抽象的表現で結論を引き出す言葉で使われがちではないだろうか。

  この目配りには、経験を積み重ね、その経験をクライアントの安全を中心とした配

  慮に活かすことではないだろうか。つまり相手(クライアント)を中心い快適な活

  動を日常を提供できるためのものでなければならないのであろう。

   目配りしていましたけど怪我をしました。転んでしまいましたでは意味をなさない

  そうならないための研修を日々繰り返すことで、事故を少なくできるのではないだろ

  うか。「目配り」 「気配り」 「心くばり」聞こえはいいが、その実態は何もして

  いないと、いう事を肝に命じておきたいものである。

迷歩録  目配り

2015-10-28 09:58:24 | 日記
  秋雨に  打たれ喜ぶ  野菜かな

     魚の如く  畑を泳ぐ

              trong>ひのひら  ろくべえ






   大和言葉に「目配り」というのがある。簡単なようで難しい、難しいようで簡単、

  それぞれ個人によって、その価値や方法が違う。特に対人援助の場で集団を相手と

  する時、その効果は発揮できるのであるが、個人差が激しいため、何を基準にその

  行動が、できているのかできていないのかどうすればいいのかなど曖昧のままに使

  われるのがこの大和言葉ではないだろうか。例えば「見守り」などと言う言葉に変

  化して使われる。これって何をどうする事と言ったことは、誰も教えてくれないし

  指導もしてくれない。どうしていいかわからない時「見守りで」という結論を遣っ

  たりする。このことは周りの人は何をどうすればいいのか、見てればいいのか、見

  てるだけでいいのか、どうすることなのかクライアントの状態にもよる複雑なかか

  わり方なのに、抽象的表現で結論を引き出す言葉で使われがちではないだろうか。

  この目配りには、経験を積み重ね、その経験をクライアントの安全を中心とした配

  慮に活かすことではないだろうか。つまり相手(クライアント)を中心い快適な活

  動を日常を提供できるためのものでなければならないのであろう。

   目配りしていましたけど怪我をしました。転んでしまいましたでは意味をなさない

  そうならないための研修を日々繰り返すことで、事故を少なくできるのではないだろ

  うか。「目配り」 「気配り」 「心くばり」聞こえはいいが、その実態は何もして

  いないと、いう事を肝に命じておきたいものである。

目配り

2015-10-28 09:34:25 | 日記
  秋雨に  打たれ喜ぶ  野菜かな

     魚の如く  畑を泳ぐ

              trong>ひのひら  ろくべえ






   大和言葉に「目配り」というのがある。簡単なようで難しい、難しいようで簡単、

  それぞれ個人によって、その価値や方法が違う。特に対人援助の場で集団を相手と

  する時、その効果は発揮できるのであるが、個人差が激しいため、何を基準にその

  行動が、できているのかできていないのかどうすればいいのかなど曖昧のままに使

  われるのがこの大和言葉ではないだろうか。例えば「見守り」などと言う言葉に変

  化して使われる。これって何をどうする事と言ったことは、誰も教えてくれないし

  指導もしてくれない。どうしていいかわからない時「見守りで」という結論を遣っ

  たりする。このことは周りの人は何をどうすればいいのか、見てればいいのか、見

  てるだけでいいのか、どうすることなのかクライアントの状態にもよる複雑なかか

  わり方なのに、抽象的表現で結論を引き出す言葉で使われがちではないだろうか。

  この目配りには、経験を積み重ね、その経験をクライアントの安全を中心とした配

  慮に活かすことではないだろうか。つまり相手(クライアント)を中心い快適な活

  動を日常を提供できるためのものでなければならないのであろう。

   目配りしていましたけど怪我をしました。転んでしまいましたでは意味をなさない

  そうならないための研修を日々繰り返すことで、事故を少なくできるのではないだろ

  うか。「目配り」 「気配り」 「心くばり」聞こえはいいが、その実態は何もして

  いないと、いう事を肝に命じておきたいものである。

内と外

2015-10-26 11:54:57 | 日記
  秋海に  糸を垂らして  時を待つ

         静かなる身や  心わくわく

                   ひのひら  ろくべえ







    内と外、中身と表面など物事の裏表を表す言葉は沢山ある。しかしこのことは別々のことを

   言っているのではなく、表裏一体とでも言ううか、どちらも大切だという事を言っているので

   あろう。夏目漱石の言葉にこんなのがある。表面をつくるという事は、内部を改良することで

   ある。なるほどである。とかく日本の組織は外ずらというか、外部に対していいかっこしたい

   傾向にないだろうか。その情報で一流企業と信用して高額なお金をはたいて購入したマンショ

   ンが、傾いている。スローガンは立派だが中身は全然という事が日常の中で多々ある。特に対

   人援助の職場はそこに働く人が大切である。その人の向上成長に寄与しないままに、クライア

   ントの援助、教育を提供しますととなえられても、それは心苦しいものがある。まだまだ日本

   では、消費者が選べない、システムが行き届いているわけでもなく、その情報さえ隠されてい

   る社会、外側からしか見ることができない。しかし大切なのはファションではない、中身なの

   ではないだろうか。中身の優秀なものは、外側からでも見えてくるが、外側だけ着飾っている

   ものはなかなか、中身を知ることができない。消費者としては中身を推測できる能力が必要な

   のではないだろうか。対人援助職としてクライアントにかかわる立場の人は、日々中身を磨く

   ことを忘れず続けることが大切なのではないだろうか。

    物事は裏と表、内と外、外見と中身などと分けて考えるが、本当は一体であることを忘れて

   はならないのであろう。内側を充実させることを忘れないようにしたいものである。