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迷歩録   いちぼうじっかん

2017-03-31 15:03:44 | 日記
  春雨や  山河草木  喜んで  花を咲かせて  明日を夢見る


                             <strong>ひのひら  ろくべえ



    いちぼうじっかん、(一暴十寒)とは、少しの時間努力しても、長時間怠れば物事は成功しないという事の

   教えだそうな(広辞苑)短時間で物事を習得してもそのことを続けなければ目的を達成することはできないと

   言う事であろう。

    又、長時間かけて学んだことでも、一時休めばすぐに元に戻り役に立たないという事もある。いずれにして

   も、毎日コツコツと続けなければ、意味のないことになってしまうという事であろう。

    特に手先の技術やスポーツなどはその部分が大きいのかもしれない。しかしコミュニケーションというもの

   は、一概にそうは言えないことがある。コミュニケーションは学ぶというより、知らず知らずに身につけたと

   いう人が多いのだろうから。時に問題意識を持つことが少ないので、いつもそのままであればいいと感じてい

   ることが多いのと、もし失敗しても相手が悪いと思い込んだり、言い訳をして、自分御問題とし難いことがあ

   るのではないだろうか。そのため自分で特別努力をしようとせず、失敗を繰り返すことになるが、その理由は

   他人のせい、そのようなコミュニケーションの学びは特徴があるのだろう。

    そこでコミュニケーションの学びは、毎日毎日、如何なる人とのコミュニケーションであっても、その度自

   分を振り返りを続けなければ、上手くはならないという事であろう。

    対人援助の中で、殆どの時間はこのコミュニケーションである。そのことをうまくこなせるためには、日々

   の努力だが、その努力を生かすためには「一暴十寒」とならずに、地道にコツコツと同じことを繰り返し学ぶ

   しかないのである。

    そのことを実感する方法として、対人関係のプロセスレコードをお勧めしたい。この記録を行う事で、自分

   という存在が客観的に理解できるようになる。このことは対人援助職にとってはとても大切なことで、自分が

   解れば、クライアントを理解できる。あるいは理解しやすくなる。

    このことを一暴十寒にならずに、続けることが、対人援助コミュニケーション技術の向上に近道となるであ

   ろう。

   

迷歩録   ちゆう

2017-03-30 09:54:11 | 日記
  <strong> 雨の朝  流れきらきら  高須川  土手を彩る  菜の花光る


                                 <strong>ひのひら  ろくべえ




   「ちゆう」とは、知勇兼備の「ちゆう」である。

   知勇兼備とは、知恵と勇気を兼ね備えていること。(広辞苑)とある。

   知恵とは、物事の理を悟り、適切に処理できる能力、勇気とはいさましい意気、ものに恐れない気概。とある

   この両方を兼ね備えていることが成功への近道なのであろう。それ故このような教えが存在するのだろうが、

   今の世の中、このような備えを持とうとしている人がどの程度存在するのであろうか。少し不思議な言葉に聞

   こえてくるのは何故だろうか。

    人工知能の世の中に変化しようと激しく流れている今、人間の知能は衰えて行っているのであろうか。知勇

   兼備どころでなく、知勇皆無という事にもなりかねない。経済性だけが優先される世の中、その経済性に埋も

   れて、知性を失う人間という事になりはしないだろうか。そうなれば今以上に経済格差は広がり、経済性が知

   勇兼備という事にもなりかねない状況である。

    一生を送るうえで、生きる生きざまに大切な知勇兼備このことを追求できる姿勢を持ちたいものである。

   知勇兼備の体験の中に、わくわくひやひやの感情が芽生え、危険と達成を味わうことができるのではないだろ

   うか、石橋を叩いて渡るだけが人生ではない、初めてブランコに乗った時、初めて滑り台で滑った時、そのよ

   うな時を過ぎて今があるのではないだろうか。年齢は関係ない、初体験はわくわくひやひやするもの、その体

   験こそが、人間的成長を促のではないだろうか。

    失敗は成功のもとという諺もある。失敗は学びの特効薬、しくじりは学びの教科書、成功することよりも、

   失敗することのほうが重要という事ではないだろうか。

    知勇兼備を持って、自分を成長へと導くことこそが、人生の醍醐味なのかもしれない。

迷歩録  のそん

2017-03-29 14:52:29 | 日記
  陽射しなく  寒さ残りて  炬燵かな  瞼仲良く  うつろな時間

                                 ひのひら  ろくべえ




     「のそん」とは、のどかすぎるひとと広辞苑にある。のどかとは落ち着いて静かなさま、気にかからな

     さま、心配のないさま、天気よく穏やかなさまと広辞苑にある。「のそん」な人を大切にする政治など

     と使われる言葉である。とかく、人は目立つ人、あるいは意見を持っている人、肩書のある人など特徴

     のあるものにだけ目がいきがちだが、本質は、「のそん」な人の評価こそが大切で真実に近いという意

     味ではないだろうか。

      国会で話題の森友劇場も、出演者で読める真実があるのではないだろうか。自分たちの保身のみあるも

     と、落ち着いて真実を「のそん」に対応しているものの中に真実があるのかもしれない。

      対人援助の職場でも、大切なのは、自分自身を「のそん」的存在として演出して、ケアに活かすことが

     大切であることを知ることが、成長の切っ掛けとなるのかもしれない。

      月夜の蟹のように焦り慌て移動するようなことではなく「のそん」とした行動の中に、鋭い視点を持つ

     ことが理想ではないだろうか。

      かっての剣客たちは、「のそん」の構えの中に鋭さを持っていたのではないだろうか。現代人には少な

     くなっている傾向のある人だが、目指すにはとても素晴らしい人間像ではないだろうか。

     「のそん」的人間を目指すことも悪くないのであろう。

       今風に言えば、アナログ的な人間という事ではないだろうか。デジタルがすべてではなく、アナログ

     だって理解し、対応できるそのような人間像なのかもしれない。

      いずれにしても「のそん」とはのどかな人という事である。のどかを追求することでコミュニケーショ

     ンがうまくなればそれに越したことはないのである。

迷歩録  しゅんぷう

2017-03-28 08:52:38 | 日記
  青空に  沁み込む声や  鶯の  春が来たよと  知らせるが如



                                 ひのひら  ろくべえ




    「しゅんぷう」(春風)とは、春に吹く風、恩恵・教化が大きく深いことのたとえ(広辞苑)とある。

   つまり春風とは恵み情けに深く、教えに導いて善に進ませること、善とは何であろうか。善とは他者に対する善と

   自分に対する善がある。他者に対する善とは、まずもって迷惑をかけない、他者を傷つけない、もちろん精神的に

   も、身体的にもである。このことを善と捉えるならば、日常の生活を見直すきっかけにもなるのではないだろうか。

    善の考え方は難しい特に自分に対する善のありようである。この捉え方を間違ってしまうと。そのために一生罪

   悪感を持つことにもなりかねないのではないだろうか。

    他者との関係性の中での善と自分自身の内的善とは明らかに意味が違う事を捉えていなければ、他者に不当に介入

   したり、自分自身をむやみに傷つけたりという事にもなりかねないのである。

    特に対人援助の場では、単純な善という考え方ではすぐに限界が来る。限界が来てしまえばやる気をなくしてしま

   い、行き詰まりを感じることにもなる。そのような体験をすることも大切だが、その時点で、職業を変えてしまうこ

   とになれば、それはそれでいいのだが、人間はそう簡単ではない、生活の為とか家族の為といって嫌でも続けなけれ

   ばならないことはいくらでもある。そんな時、精神的身体的限界が近づき、自分というパーソナリティーが崩壊して

   しまう危険性がある。そうならないためにも自分の生き方における善とは何かを自分に問うておくことも大切なので

   はないだろうか。

    基本的に人間は自由だが、その自由は他者からの監視の中での自由と思い込んではいないだろうか。精神的自由と

   いうものは、自分で判断して、自分で決定して、自分で責任が取れることが大前提なのではないだろうか。そこまで

   考えて実行する力こそが、その人の生命力というものではないだろうか。また勇気というものでもあるのかもしれな

   い。

    人間の人生は、いつも「しゅんぷう」が吹いているわけではない。「しゅんぷう」が吹いていることを知り捉える

   ことが大切なのではないだろうか。他者との関係性では、「しゅんぷう」を吹かせる存在となろうとすることが大切

   なのではないだろうか。他者に対して春風的存在になるという事は、自分に対してもそのような存在の人が現れると

   ことでもあるのだろう。

    春風とは自分の人生における善との関係を考察できる良き材料であることには変わりない。自分の春風を考え、他

   者の春風を考えることができる存在を目指したいものである。

迷歩録   おしはかる

2017-03-27 13:45:22 | 日記
  <strong>稀勢の里  手負いとなって  強さ見せ  連続優勝  見事人生



                                ひのひら  ろくべえ



    「おしはかる」ある物事に関係する事柄から、未知のことに見当つける。という事である。

    今の国会で話題となってる忖度もその一つである。その他にも推理、推測、推量、推論、推察、推考などの

    言葉が存在する。

     ある情報を、分析して論理的に推論することから、感覚的に思い込み相手に有利になるよう推し量るとい

    うことである。日本独特のおもてなし文化もこの「おしはかる」という価値観に基づいた行動ではないだろ

    うか。

     つまり、同義語である忖度という行動は悪いことでもなく、当然ありゆる行動であることをなのだが、そ

    の、行動が不平等ということになっていることが問題なのではないだろうか。忖度ができる人は、よく気が

    つく人、痒い所に手が届く人などと称賛される。しかし、この「おしはかる」心は、両刃の剣であることも

    事実で、やりすぎてしまうと反感をくことにもなってしまう。このように考えると。より近い人間関係で起

    きてしまうという事ではないだろうか。

     対人援助職で起きうる問題でもある、クライアントの気持ちを推し量り行動したことが、他のクライアント

    から見ると、えこ引きに見えてしまう事も事実ではないだろうか。そうならないためにも細心の心配りをしな

    がら行動することが大切と言う事ではないだろうか。

     公人や私人という前に自分の存在がどのような立場なのか、自分の行動は、どのような影響力を持ついのか

    「おしはかり」行動することが基本であろう。その点から、総理大臣、総理大臣婦人の行動が軽軽であること

    は、誰が見ても明らかなのだが、終始言い訳に埋没し、そのことを擁護する国会議員という事になるのではな

    いだろうか。

     いずれにしても、「おしはかる」という行動そのものは、とても優秀で素晴らしい行動であるが、そのやり

    すぎには、気をつけなければ、人間関係の破綻に繋がることがあるという事を学びとりたいものである。