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迷歩録   ごかい

2017-06-30 12:05:36 | 日記
  色づいた  桃に語るや  梅雨空に  てふてふ舞て  恋の戯れ


                                ひのひら  ろくべえ



   「ごかい」(誤解)とは、意味をとり違えること、間違った理解をすること、思い違い(広辞苑)とある。時の防衛大臣が

  このことを知ってか知らずか、誤解されやすい発言をしたとの記者会見、なんだかどこかおかしいと感じた人は多いのではな

  いだろうか。つまり誤解というのは受け手の問題、聞き手の問題で誤解するかしないかは発信者は予測できないのではないだ

  ろうか。誤解されるかもしれないと言う不安があれば、その場で訂正なり言い換えたりと行動をするのが当たり前、なのに防

  衛大臣は、五時間後に誤解を与える発言をしたと陳謝したとのこと。防衛大臣として、防衛省、自衛隊としての言葉の、どこ

  をどのように誤解をするというのであろうか。国民を馬鹿にした見下げたこの行動だからこそ、このような失態を起こすこと

  になるのかもしれない。

   誤解というものは人間関係の中で時には破綻まで発展することにもなりかねない問題である。特に施設などでのスタッフの

  行動が誤解を与えることが、クライアントの不快に繋がることがよくある。特にクライアントのいる場でのスタッフ同士のヒ

  ソヒソ話や立ち話、この行動は行っている者、以上にクライアントに不安や不愉快を与えていることを対人援助職のスタッフ

  は、知っておく必要がある。このことが積み重なると、悪口を言われているとか、自分の状態が悪いなど、かってに誤解した

  思いを膨らましてしまう事にもなりかねないのである。対人援助の如何なる職業も、コミュニケーション場における注意点と

  して、学校では教えてくれない、資格試験にも出てこない、しかし、最も重要な行動パターンであることを胸に刻み込んでほ

  しい。誤解を与える行動、発言はできる限りない方がいいのである。つまり不安や不愉快を与えるのが対人援助ではないので

  ある。何気ないスタッフ同士の、会話、そのような会話は、スタッフルームかクライアントのいない場で会話することをお勧

  めしたい。そのような配慮あってこその対人援助職なのではないだろうか。学校で習う当たり前の技術ではなくこういった、

  経験から学びえるものを大事にした援助職というものが優先される職場となれるよう、経営者、管理職はもとより、スタッフ

  一人一人が、不安と不愉快を与えないケアの場つくりに邁進することが大切ではないだろうか。

   時の防衛大臣の様に、誤解をするのは国民などと言う考え方にならないためにも、自分たちのコミュニケーションの力を向

  上させる取り組みを日常的に行う事が大切なのではないだろうか。

   聞き手が悪い、施設が悪い、経営者が悪い、管理職が悪い、スタッフが悪い、など他者にすべての責任を擦り付ける考え方

  から脱した価値観を構築することに努力したいものである。

   誤解は最低限に誤解は解消できる説明を、対人援助のコミュニケーションにおける誤解解消技術を獲得したいものである。

迷歩録   いましめ

2017-06-29 10:51:37 | 日記
  <strong>青トマト  お化粧したい  陽射待  雷響き  梅雨明けまじか


                                <strong>ひのひら  ろくべえ




   またまた呆れた発言の防衛大臣、開いた口が塞がらないとはこのことだ、大声で秘書を禿呼ばわりする衆議員、防衛省を

  選挙に使う大臣、何とも日本の議員さんはどうなっているのだろうか。さらにはその議員を擁護する長老議員たち、何がど

  うなったのか、理解に苦しむ状況、かって日本人は、「いましめ」という美学を備えていたのではないだろうか。武士はそ

  のために自分を護る、大刀と自分を戒める短刀を腰に差していたと言われるほど、自分に厳しく、他人に優しいことを美学

  として哲学として持ちことにあたってきたと聞く。女性は簪というものを頭に差して、自分を護道具として自分を戒める道

  具としていたことを聞いたことがある。今や、大刀も短刀も簪も心の奥にしまい込み持つ物となっていると信じていたが、

  そうではなさそうである。そのような自分を「いましめる」ものなど持つどころか、持ってもいない状況なのではないだろ

  うか。政治家というものは、自分を戒めてこそ他人に共感を得ることができるのではないだろうか。それなのに防衛大臣は、

  誤解して受け取るのは国民であると言い話す。誤解なんぞはしない、あなたが自衛隊も自民党もと言ったのではないかと、

  言いたい。人は自分への戒めが重要であるが、この発言をした大臣を、ひたすら問題ないと擁護する政党、何か間違ってい

  ませんか。間違いは間違いとして正す姿勢こそが国民は求めているのではないだろうか。政党自体の体質に「いましめ」の

  体質がないのかもしれない。国民よ騙されるなと言いたい。経済だけでなく国は政治姿勢が大切であることを、時代劇から

  学んでほしいものである。

   対人援助の場でも「いましめ」は、とても大切な事、援助してやってるという、価値観を持つようになってる人、「いま

  しめ」が低下してくると、そのような価値観になり、言動をとるようになるから要注意である。何とかならないか、何とか

  したいといった価値観から、当たり前感謝してという価値観になっていくやがてはそのことが、援助してやってるという価

  値観となって、あぐらをかくようになってしまう、。そうなれば、時の防衛大臣や、禿呼ばわりする衆議員と同じこと対人

  援助の場では絶対に必要ない価値観、自分を「いましめ」これでいいのかを繰り返す毎日、それこそが対人援助の職場であ

  り、対人援助職なのでる。「いましめ」は毎日の夕食のようなもの、必ず食して英気を養いたいものである。、

迷歩録   きまま

2017-06-28 11:15:36 | 日記
  <strong>若葉雨  激しく叩く  目覚めかな  暗闇の中  音や広がる


                                          ひのひら  ろくべえ




   我儘とか、勝手気まま、気ままかって、気まま放題、我が身勝手などと言う言葉がよく使われる。特に対人援助の場で

  援助者の思い通りにならない人は、我儘な人、身勝手な人、「きまま」な人などとレッテルを貼られる傾向にある。それ

  も多くの人がそのように思っているのではなく、チームの中のリーダー的存在や、人間関係力動が強い人が言い始めると、

  その他の人も、そのことに引っ張られる形で、気ままな人などと言って、事をすまそうとする傾向になる。そうすること

  で、気ままな人だから、行き届いたケアはできないという事の言い訳になってしまう。

   レベルの高いチームならば、そのことに気づき、レッテル貼をやめてケアの本質を問う事ができるのだが、レベルの低

  いチームは気づくこともなく、すべて気ままな相手が悪いとしてケア技術を磨かないだけでなく、さらに相手が悪いとい

  う結論を見出し、自分たちの至らなさを棚に上げてしまう傾向にある。

   「きまま」とは、本人が未熟が故に気づかない場合と、本人が知ってそうしてる場合とある。そのどちらかであること

  をまずは見抜くというか、知ることが大切であろう。本人が未熟で気がついていない場合は、丁寧にかかわり方とコント

  ロールの仕方を学べるようにするしか他ならない。我慢と欲望の関係である。しかし意図してやってる場合、本人は気づ

  いているのだから、その理由を訊き、話し合うしかないのである。そのことをサボタージュして、相手が気ままだから何

  もできない、しないでは、対人援助としては不合格ではないだろうか。

   「きまま」という言葉を使って相手を規定してケアをサボタージュすることこそ、罪重きことであることを自覚してほ

  しいものである。相手を悪く言うという事は、自分は未熟だと言ってることと同等なのである。身勝手、我儘、「きまま」、

  などの評価をする時は、自分たちの未熟な技術隠しでもあることを心得ておくことが大事である。

   対人援助の場で、どうにもならないケースや、どうにもならないコミュニケーション場面が存在するだろうが、その時

  こそ、学び飛躍できるチャンスと考えることが技術の向上につながるのではないだろうか。すべて相手のせいにしてしまい、

  相手にネガティブなレッテルをつけることが対人援助ではないことを理解してほしいものである。
  
  「きまま」という言葉をキーワードにして、ケアサボタージュに至らないことが大切な事、相手を「きまま」と言ってる自

  分が「きまま」であることに気づくことが大切なのではないだろうか。                          



迷歩録   おもねる

2017-06-27 12:39:04 | 日記
 <strong> 梅雨空に  トマト鈴なり  陽射待  色付け笑う  梅雨明けの朝


                              ひのひら  ろくべえ




    おもねる」(阿る)とは、面(おも)練る(ねる)顔を左右に向ける意、機嫌を取って相手の気に入るようにする。へつらう

    追従する。(広辞苑)とある。日本の大企業たかたが民事再生法を提出した、事実上の倒産である。車社会を支えてきた日本企

    業の倒産は、日本という技術大国にとっても痛手ではないだろうか。タカタの問題は経済評論家によると、車会社大手の顔色は

    見ているが、消費者の顔は見ていなかった。そのために問題発覚後の対応が遅れたなどと評する人もいる。つまりリスクマネー

    ジメントはできていなかったという事であろうか。力あるものに「おもねる」ことはできても消費者にはできなかったことが、

    このような結果に至ったのではないだろうか。人間も同じことで時の権力者に「おもねく」だけでは成長はままならないという

    ことではないだろうか。大声で秘書を罵倒したり暴力を振るう衆議院も、政党の幹部には「おもねいて」いたようだ、そのスト

    レスを秘書に向けるとはもってのほかだが、時の幹部に阿諛追従(あゆついしょう)することだけはできていたのであろう。

    「おもねる」ことがすべて悪ではなく、誰のために何のために「おもねく」のかが大切なのではないだろうか。私利私欲のため

    だけに阿諛追従する姿は、大衆には受け入れられないのかもしれない。

     阿諛追従とは人に阿って、こびへつらう事とある。阿諛とはお世辞を言って機嫌を取ること、追従はおべっかいを使う事と広

    辞苑にある。つまり現代社会はこのような人が増えているのではないだろうか。努力なしで「おもねる」ことだけに知性を磨き

    自分自身の人間性を磨くことを忘れてしまったのかもしれない。そのような人は。本末転倒で「おもねる」ことが人生の中心と

    なり、自分らしさをつくりだすことは忘れてしまうのかもしれない。言い換えればそれほど時の権力が強いという事にもなる。

    このまま発展を続けると、権力の増強がますます強くなり、ゆくゆくは独裁とか、一党支配などの状況になっていくのかもしれ

    ない。国民はその点に注意を払う必要があるのではないだろうか。

     対人援助の場でも、管理職や、経営者だけに「おもなく」タイプの援助者をよく見かけるが、本当にそれでいいのか自分を問

    いただしてみてほしいものである。誰もが出世をしたい気持ちは理解できるが、人生とか出世というものは、急がば回れである。

    自分の得意なものを獲得して、そのものを武器として活用することで、オリジナルな自分というものをアピールできる。確かに

    受け取る側が気づかないことも多々ある。しかし自分の道を頑なに歩くことも必要なのではないだろうか。無能者が考える「お

    もねく」ではなく、将棋の少年の様に、我が道を創るというプロセスの中にこそ、自分らしさを見出すことができるのではない

    だろうか。対人援助と職業は地味な仕事である。何もない日常生活が当たり前、当たり前はだれも良い評価などくれない。しか

    し、クライアントは喜んでいる。それでいいのではないだろうか。誰にも「おもねく」ことなく、人間として恥ずかしくない言

    動を続ける援助をすることが、援助技術なのかもしれない。

 

迷歩録   いぎょう

2017-06-26 12:59:39 | 日記
  降り続く  川深きなり  青鷺や  水田選び  食事の時間


                               ひのひら  ろくべえ





   将棋の世界で、若者が「いぎょう」(偉業)を成し遂げようとしている。将棋に興味も関心もない人までもが、その若者を

  今や知っている。連日そのニュースは流れる。今日は新記録を目指しての対局だそうな。将棋界に限らず若者の台頭はすさま

  じい、様々な分野で台頭している。特に陸上競技百メートルでは十秒を切るのは時間の問題のようだ、「いぎょう」というものは

  様々な分野での出来事、しかしそのことはマスコミに取り上げられて出ないと、人は注目しない。

   しかし、人は特別な能力を持つ人だけが「いぎょう」ではなく、その時代を支える社会そのものが「いぎょう」の時代と言

  う事ではないだろうか。「いぎょう」というものを成し遂げるには、そのものを支持し支える社会と民衆があってこそ、偉業

  なのではないだろうか。それにしても将棋の中学生は凄い、素晴らしい、何が素晴らしいかというと、その人物像ではないだ

  ろうか。どこかの衆議員に勉強してもらいたいものである。中学生とは思えない落ち着きと礼儀正しさ、驕りのなさ、大人達

  よ見習えと言いたい。大人たち恥ずかしいことなのだぞ、将棋界の名人中学生を見て手本にするという事は、大人こそ彼らの

  見本となるべき態度、言葉、つまり言動が取れなければならないのだ。

   特に対人援助の場での一対一のケア場面での言動はとても大切な事である。一対一の場面ではつい気が緩み言動がいい加減

  になりがちである。一対一だからこそ、慎重に大切に丁寧に対応しなければならないことを学んでほしいものである。

   「いぎょう」は特別な人のことではなく、今、生きてる生命そのものが「いぎょう」なのだから、そのことを互いに大切に

  しながら、互いに生きることを共有し合った、思考そのものが大切なのであろう。

   秀でた才能だけではなく、その才能を讃える民衆あってこその才能であることを民衆が知ることが大切なのではないだろう

  か、人間は才能があるから生きている。将棋はできなくても援助はできるそのこと自体が「いぎょう」であることを心して、

  毎日のケアにあたりたいものである。それにしても将棋のプロ棋士中学生は凄い、将棋だけでなくその人間性に脱帽である。
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