朝焼けや 新緑照らす 山の里 鳥たち鳴いて 恋の駆け引き
ひのひら ろくべえ
人間は様々な「ちから」を持っている。その『力』を引き出すのがケアなのだが、多くの看護者、介護者は
その『力』を奪い、自分たちが代理をすることを看護だとか介護とかリハビリと勘違いしていないだろうか。
人間の持つ、自然治癒力という「ちから」を奪い取るケアをしていないだろうか。食事介助も排せつ介助も、
日常生活全般自分の「力」で行いたいと本能は求めている。しかし援助者は不安だがら、できないと決めつけ
代理行為をしてしまう。クライアントはますます自分ではできなくなってしまう。誤飲の危険があると言って
食物を与えず訓練もしない、胃婁というパイプ食事だけにしてしまう。口腔内をつかう「力」を奪ってしまう
緊急やむえない応急処置をいつまでも続ける。人間らしい食事という事に対するケアは行われない。
食べたい、見たい、自分で排泄したい、音楽を聴きたい、匂いを嗅ぎたい、様々なものに触りたいその人
間としての活動意欲を無視する看護、介護、リハビリを行なってはいないだろうか。時間がかかることと、で
きないことは違う。早期離床、早期リハビリという言葉がある。スタッフ一体となって、個人の「力」を信じ
クライアントの「力」を引き出すケアをすることが求められる。クライアントのできない事ばかりを問題とする
ケアではなく、できる限りクライアントの自然治癒力を引き出すケアこそが、求められているのであろう。
人間の可能性を求めて回復へと導くケアこそが対人援助力、その「力」を磨くことこそが求められること。
ケア技術は、代理をすることではない、その人が生きる「ちから」を取り戻せるようケアする事、それが対人援
助の技術ではないだろうか。