gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

迷歩録  プライオリティー

2018-05-31 11:16:36 | 日記
  梅雨空に  白く華やぐ  梔子や  座談会する  蝸牛かな


                                ひのひら  ろくべえ



    危機管理意識の高い人は、このプライオリティーが高いととのこと。

   プライオリティーとは、優先権という意味だそうな。この頃の社会問題を

   見ていると。このことが理解できていないのではないかと感じることが良くある。

    国会においても、誠実に、真摯的に答弁しますと言ってるのもかかわらず

   関係ない話でやたらと時間を使う総理大臣、国民の優先課題と、総理の優先課題は

   違っているのではないだろうか。

    森友学園問題でも、あるいは日大フットボール問題でも、国民と当事者やその関係者

   との、優先課題の乖離は酷いのではないだろうか。

    人間の脳はいつも自分にとっての優先課題を選択して、行動を起こすと考えられるが、

   その事を当てはめて考えてみると、総理大臣や総務大臣など政府の要人たちは、意図的に

   「プライオリティー」を変化させているように感じられる。

    つまり意図的操作ということではないだろうか。

   誰を護るための操作なのかは、歴史が証明することになろう。

迷歩録  げいは

2018-05-30 12:23:23 | 日記
  くちなしや  白き花びら  広げけり  曇天の空  薫飛び交う


                                  ひのひら  ろくべえng>


    



   日大のアメリカンフットボール選手たちが、声を上げた、素晴らしいことである。長年若者が

  声を上げるという話を聞くことはなかった。久方の「げいは」(鯨波)である。

   「げいは」(鯨波)とは大波、鬨の声(広辞苑)とある。つまり、選手たち若者が時の権力に

  向かって声を上げたということである。

   スポーツの世界はとかく縦社会などと評されるが、強さと人間性、地位と人間性は必ずしも比

  例しないのに、権力を護るために、強行にヒエラルヒーを護ろうとする。そのために使う言葉が

  選手のためにとか、今回も彼が成長すればいいなどと、選手のせいにして、我が身を護ろうとす

  る。権力者の心理そのものである。

   国民のためにとか、市民のためになどと叫ぶ政治家と似ている。

   今回の日大フットボール選手の行動、発言が日本スポーツ界に鯨波することを願うばかりであ

  る。

   そうなることで、日本のスポーツ界の変化が起き、さらに学校スポーツクラブや、少年スポーツ

  クラブの変化に繋がれば、東京オリンピックは楽しみが倍増する。

   この間スポーツ界で、相撲界、レスリング界、アメリカンフットボール界などの問題の根底にあ

  る問題はみな同じでじはないだろうか。

   コミュニケーションの勉強不足という、人間関係構築には絶対的に避けて通ることのできないこ

  とに対する、勉強不足でありながら、自分達は解っているという驕りの指導者という構図はみな同

  じ、選手の為ではなく、自分の地位獲得、あるいは身の保身のために選手を利用するという手段は

  同じこと。

   これでは、スポーツの発展どころか、人間性の欠落したチャンピオンをつくるだけではないだろ

  うか。

   勝つためには相手を怪我させようがいいのだという。論理は、相撲界の横綱が張りてや、かちあ

  げをして勝つのと同じこと、正式なルール以上にチャンピオンは求められるもの、いずれにしても

  今回の選手たちの声が「げいは」(鯨波)となってスポーツ界そのものに変化が起きる、選手が監

  督やコーチという指導者と話し合いながら、練習や試合ができる環境が望まれる。

   コミュニケーション、触覚コミュニケーションは、細心の注意が必要である。

   その事を知った上で、他者に触れるということが基本であることを知った上でのスポーツではな

  いだろうか。

迷歩録  むけいのげん

2018-05-29 10:19:03 | 日記
  反射する  うら若き枝  背伸びして  そよ風受けり  梅雨の晴れ間や



                                     ひのひら  ろくべえ




     国会での総理大臣答弁、日大アメリカンフットボールの監督、コーチの発言、意味もなく

    社会というか、国民を馬鹿にした、愚弄した、上から目線の発言が続いている。

     社会的地位のある人の発言であるから大きな問題ではないだろうか。

     特に発言内容に一貫性がなかったり、論理性が感じられない発言は、信用する人も少ない

    そのようなことが解っての発言なのだろうか?不思議である。

     無稽之言(むけいのげん)という言葉がある。この意味は、根拠のないでたらめな言葉(広辞苑)

    とある。

     赤ちゃんの泣き声のように、何も考えたり、比べたりしないで、ただただ頭に浮かんだ言葉を口

    から吐き出しているに過ぎない。

     言葉というものは、少なくとも幼少の頃から、教育され、それなりの意味を持って発言する。

     しかし、国会等の論戦を視聴していると、何が何だか、忘れたとか、日にちが違うとか、記憶にな

    いなどの繰り返しである。まったくもって呆れるしかしかたない。

     コミュニケーション特にバーバル(言語的)コミュニケーションが中心の場では、相手がどのよう

    に受け取るのかを、推測、予測しながら言葉を発し、自分の伝えたいことがその通り伝わったのかを

    確認しながら会話を勧めるのがコミュニケションである。

     あたかも思いが伝わらないことを理由に、コミュニケーションに乖離があったなどと言う言い訳は

    一般社会では通用しない。取引のさなかに言葉の乖離があったので、多額の契約をしてしまった。と

    いう事はないはずである。もしあったとすれば即刻責任を取らされるだろう。

     無稽之言を羅列するような、記者会見ではなく、あの青年のように、意味ある根拠ある論理性と

    具体性のある記者会見をしてほしいものである。

     国会答弁もその通りで、具体的な答弁を国民は望んでいるのではないだろうか。、

迷歩録  はざま

2018-05-28 09:49:00 | 日記
  お茶畑  未明の雨や  笑い声  彩あおき  瞳をあらう


                               ひのひら  ろくべえ





   物事の白黒のはざまで多くの人は悩みを持つ

   現にアメリカンフットボールを行う大学では、絶対的信頼と

   絶対的不信の「はざま」で苦しんでいるのではないだろうか。

   国会内でも絶対的信頼をする人と、絶対的不信を持つ人の「はざま」で

   揺れ動いている。

    国際的にも、絶対的不信を持つ北と、アメリカ、「はざま」で韓国や

   中国が動く。

    日常的にも信頼できることがらと、不信を持つことがらの「はざま」で

   揺れ動く。

    人間の心理の揺れは、生きてる限り続く

   なぜ揺れ動くのか、この世の中に絶対はないのではないだろうか

   それが自然、ナチュナルということでもあるのかもしれない

   この「はざま」をどのように処理し、不信を信頼へと近づけるかが、

   最も大切な、プロセスなのではないだろうか。

    このプロセスを踏むことこそが、信頼割合が高くなりということでもあるのだろう。

   人間は限りなくグレーの存在、そのグレーを見やすくわかりやすく

   しようとする行動こそが大切で

   対人関係の基本でもあるような気がする。

    人は不利なことは隠し、有利な事は自慢する。

    その体質ではなく、不利な事はオープンに、有利な事は

   ナチュナルにのスタンスがいいのではないだろうか。

    信頼とはそういうものではないだろうか。

   「はざま」をできるだけ小さくできることが大切なのではないだろうか。財務大臣も

    安倍総理も、日大関係者もそのことを理解して、物事の解決に臨んで

   ほしいものである。

    日常的に人間関係で悩んでいる人も、「はざま」をできるだけ

   狭くしたいものである。

迷歩録  梅雨の合間

2018-05-27 17:06:25 | 日記
         梅雨の合間




     鹿児島は梅雨入りしたが

     今日は晴天

     梅雨の合間

     明日からは夜明けから

     雨の予報

     梅雨空がやってくる

     あじさが咲き誇っている

     自分たちの季節到来である

     花や野菜たちは

     成長をできる時

     実をつけたり

     花を咲かそうと

     梅雨をチャンスにする

     穀雨というに相応しい

     ことしの梅雨はどうなるのであろうか

     日大のように陰湿にならないように

     自民党のように、驕りの雨にないように

     願うばかりである。

     梅雨空を好きな人は少ないであろう

     せめて、人間の精神だけでも

     梅雨空でなく、せめて時々晴れでいたいものである。