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迷歩録   たいど

2017-11-30 07:26:44 | 日記
  <strong>山茶花や  雨に打たれて  朝の庭  踏みしめ歩く  もみじの落ち葉


                                     ひのひら  ろくべえ




    



    相撲界の暴力事件、横綱の引退という決着をつけた。その記者会見で、横綱だから下の力士の生活「たいど」を

   指導するために暴力を行った趣旨の発言を行っていた。

    指導という名目の暴力が猶予されるとでも思っているのであろうか。指導であれば暴力行為も仕方ないと感じて

   いるのであろうか。暴力で人を傷つけそのことを正当化する態度そのものを改めなければ、他者の態度指導などで

   きるはずがないと、感じるがいかがであろうか。

    スポーツ界では時々指導という名の暴力問題が話題となる。その考え方は社会全体の根底にもあるのかもしれ

   ない。人の心は他人は動かすことができない。動かすことができるのは自分だけである。ということは精神的変化

   がなければ、変わることはないということである。この精神的な変化に指導者は如何にアプローチするかというこ

   とが大切なのではないだろうか。

    一業界で頂点になれたからと、指導に暴力を使っていいと言う論理はありえないはずである。勘違いもいい所、

   一組織で、肩書をもらったからと、人間的に優れたということではない。間違ってはならない事である。指導と

   いう言葉は聞こえはいいが、自分の思い道理の人間をつくろうとしてるだけなのである。尊重という言葉とは程

   遠い感覚なのではないだろうか。

    いずれにしても暴力という行為が肯定される社会ほど、不幸なことはないという事を思い知りたいものである。

   対人援助という職場にも指導という言葉はよく出てくる。よくよく考えて使いたいし、その本質を追求する姿勢を持

   ちたいものである。

迷歩録   にがて

2017-11-29 08:15:29 | 日記
 <strong> 曇天に  彩ずく銀杏  空に延び  道行く人の  傘となりけり


                                 <strong>ひのひら  ろくべえ







     にがて(苦手)とは、広辞苑によると、爪がにがく、手に毒のあるという手。

    その手で触ると癪(しゃく)や腹痛が治るという

    勝ち目のない相手。嫌な相手。気性などが合わないで互いに忌み嫌う相手。

    不得意。不得手。などの意味があるとのこと。

     コミュニケーションを行う時、必ずだれにも、「にがて」と感じる存在が出現する。

    価値観の違いや考え方の違い様々な違いが

    多くあればあるほど、「にがて」と感じてしまうのではないだろうか。

    特に相手と自分を同等に受け入れようと努力をしている時

    に、この感情は頭を持ち上げてくるように思う。

     相手が弱い立場とか、目下のものと捉えた時は、「にがて」であっても、

    上から押さえつける言動によってそのものを制圧する。

    その制圧がうまくいかない時、人間は暴力という手段に出る。今回の相撲界のトラブルも、

    戦争という暴力もその本質は「にがて」

    というありふれた感情が渦巻いて起きた出来事なのかもしれない。

     つまり、虐待やいじめなどの暴力と本質は同じところにあるのではないだろうか。

   「にがて」という目に見えない感情が、鬱積

    し、その鬱積した感情の我慢堤防が切れた時人間は暴力という力手段に出るのではないだろうか。

     対人援助の場でも「にがて」という相手に出会う。この時「にがて」という感情を押さえて、

    いいひと的にかかわると、その我慢の堤防は崩壊する。その時人知れずいじめをしたり虐待という行動に転嫁する。

    この行動に要注意である。このことを起こさないためにも、「にがて」という宣言をチーム内で行う事が大切なのである。

    宣言を行う事で、無理にかかわるという行動への慰めができ、かかわる心にゆとりという、

    空間ができる。このことがとても大切な精神的問題で、このゆとりをもって、ケアにおける、

    コミュニケーションというものが行える。いずれにしても「にがて」を「にがて」とせずに、

    頑張るのではなく、

    「にがて」を「にがて」として認め対処を考えることが重要ということであろう。

     「にがて」はないものでなく、誰にもあるもの、

    「にがて」を「にがて」と認めることから始まることを知って
おこう

迷歩録   たにわたり

2017-11-28 07:15:02 | 日記
  <strong>月末に  ぽかぽか陽気  霜月や  寒さ休みて  紅葉狩りかな


                                  <strong>ひのひら  ろくべえ





    「たにわたり」と聞くとまずは鶯の谷渡りを思い浮かべる、ホーホケキョと鳴き、谷から谷を渡り歩く

   その声に春は魅了される人も多いのではないだろうか。

     しかし、人間集団の噂の「たにわたり」は混乱を招くばかりではないだろうか?相撲界の暴力事件、噂が

   噂を呼び込み、何が真実なのか、何がどうなったのか、全くわからないが、それぞれに勝手に判断したり、批

   評をしている。このような状況は、よくどのような集団でも起きることである。

    悪事千里を走るというように良くない噂というものは、真実は関係なく人から人へ一瞬にして伝わっていく。

   まさに噂の「たにわたり」である。あまり望ましくない動きであるが、他人の口には戸は立てられないという

   諺もあるように、噂は真実と関係なく広がってしまうもの。

    コミュニケーションとはそういうものということも知っておかなければならない。軽はずみに発言したことが

   大きく広がり、多くの人や、個人を傷つけることがあるというものがコミュニケーションなのである。このよう

   なリスクがあるのもコミュニケーションなのである。それ故に対人関係を持ちたくないと、自閉的になる人もあ

   る。しかし物事は、裏表があるように、良きことも悪いことも両方を同時に持っているもの、そのどちらを活か

   すか自分次第なのである。

    コミュニケーションとは人間になくてはならないもの、そのコミュニケーションをどのように自分の生きる力

   にすることができるのかが大切なのである。

    「たにわたり」のように噂に乗るだけでなく、自分で真実というものを確かめる方向を持つことが大切な姿勢

   なのかもしれない。

迷歩録   おうほう

2017-11-27 07:39:37 | 日記
 <strong> 雨の後  朝日顔出し  露融ける  寒さ緩みて  落ち葉踏みしめ


                                 <strong>ひのひら  ろくべえ






   コミュニケーションはバーバル、ノンバーバルにせよ、相手があって成り立つこと、このことを無視して

  コミュニケーションは語れない。当たり前だが、このことを意識している人は少ないのではないだろうか。

   コミュニケーションほど、「おうほう」(応報)が明確なものはないのであろう。つまり応報とは善悪の行

  いに応じて𠮷、凶・禍福の報いを受けること(広辞苑)とある、つまり自分自身の進め方対応の仕方が、応報

  として自分に返ってくるということではないだろうか。

   相手の対応を見て自分を知れということでもある。コミュニケーションは自分の姿が相手に伝わり自分に戻

  ってくる。このことを知った上でコミュニケーションを行う事がとても大切なのである。

   コミュニケーションは一人相撲ではないことを意識しておくことが大切なのではないか。

   特にノンバーバルコミュニケーションは相手の心に直接突き刺さることである。人間は言葉と行動を融合さ

  せ、相手を知ろうとする。そのことを心にとめてコミュニケーションしたいものである。 
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迷歩録  ひさめ

2017-11-26 08:49:25 | 日記
            ng>ひさめ


        シクラメンが花屋の店先を飾るころ

        そのシクラメンを濡らして

        氷雨がしとしと

        その花を買い求める娘も

        寒そうに、だけどどことなく

        嬉しそうに買い求めていく

        どのような所に飾るのだろう

        少し気になる

        氷雨はしとしと

        傘からはみ出した服を濡らす

        その寒さが徐々に

        身体を冷やす

        暖かい飲み物を求める

        入店した喫茶店

        そのカウンターにシクラメン

        冬のシクラメン

        クリス前を彩る

        その彩りを際立たせる氷雨