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迷歩録  うんこんどん

2016-12-30 08:32:52 | 日記
  <strong>年の瀬や  流れる水も  忙しなく  烏の声や  里響くかな


                            ひのひら  ろくべえ




   うんこんどんとは漢字でこのように書く、運根鈍、意味は成功するには運が良いこと、根気があること

  粘り強いことの三つが必要ということらしい。確かに物事を極めようとするとき、根気がなければ、続け

  ることすらできなくなってしまう。さらに粘り強さがなければ深さや広さを求めることができない。いず

  れも、精神の活動である。この活動が人間にとっていかに大切かという教えでもあろう。根気と粘り強さ

  は似ているが、粘り強さは、持久力ということも言えるのであろう。つまり同じことを行い続けるという

  行動である。これもまた難しいが、同じことを百回繰り返せば、見えてくるものも違ってくる。このこと

  が大切なのだが、一を知って百を知ったように振る舞うものが多い現代において、その物事の極みを見定

  めようとする粘りがあれば、成功へと導かれるだろう。

   成功とは他者評価ではなく自己評価で、絶対評価でなく相対評価ということでなければならない。この

  ように考えると、同一行動を続けるということの困難さが解るが、その困難さこそが人間力を増すことに

  もなるのかもしれない。さらに、運という得体のしれないものまで引き寄せることにもなるのかもしれな

  い。世界情勢は刻々と変化していっている。あと二日で迎える酉年2017年はどのような年になるのだろう

  か、今の現状が急に変化することはないだろうか。時間をかけてじわじわと変化している流れは変わらな

  いであろう。流れに乗って過ごすもよし、流れに逆らうもよし、いかなる時も「うんこんどん」を胸に刻

  み、自分の成功に向けた志を持ち続けたいものである。

   今年一年迷歩録を読んでいただきありがとうございました。
   
   二日後の新年もよろしくお願い申しあげます。有難うございました。

迷歩録  うばう

2016-12-29 10:08:49 | 日記
  <strong>穏やかな 年の瀬迎え  手を合す  過ぎ去りし劇  走馬燈かな


                            <strong> ひのひら  ろくべえ


    今年も帰省ラッシュが始まり、残すところ後2日となった。それぞれに様々な思いを抱いて年の瀬を

   過ごしているのであろう。他人との比較で自分というものを見てしまうと、金もねえ、畑もねえ、車もね

   え、恋人もねえ、彼氏もねえ、無い無いずくしの一年だったと思っている人もあるかもしれないが、そ

   れは、何にもないのでなく、将来に多くの課題を手に入れた事なのだから、喜ぶべきこと、人間の欲は、

   限りない、現状では満足しないという素質を有している、それが故に苦しむものも多いのだが、苦

   しむだけでなく、苦しみを「うばう」ような発想をしたいものである。苦しみの数だけ快があるとする

   ならば、必ずや快がやってくる。その快を感じれる感覚を研ぎ澄ましておきたいものである。

    人間の世界は五分と五分、十人いれば五人は不幸と思い、五人は平凡と思う、五人成績が悪かれば、

   五人は成績優秀ということになる。この時大切なのは、平凡とか優秀とか側に入った時である。兎角

   良いほうだと感じたときから、他者の物を「うばう」という行動を無意識にするようになる。このこ

   とは本人も気づかないままに行うから、不幸なものを、より不幸な方へと追いやってしまうだけでな

   く、不幸な者の再活動できるチャンスまで「うばう」事となっている場合がある。

    家族で過ごす時間が多いこの正月、家族の欲望を「うばい」過ごしていないか検証してみる良い機会

   ではないだろうか。その大事な物差し基準は、家族の為とか子供の為、誰それの為と言って、自分の欲

   望を満たそうとしているか否かである。

    不満な正月とするか、本当に晴れ晴れとした正月にするかは、自分次第、人の欲望を「うばい」満足

   する短絡的な満足ではなく、崇高な満足、つまり周りの者の欲望を満たすことで、自分も満足するとい

   った行動が如何にできるかということではないだろうか。

    人間が行う知らず知らずの内に行う「うばう」という精神活動、できることをしてやることも「う

   ばう」行為気をつけなければならない。時間がかかるから、時間がないから、忙しいから、大変だから

   様々な理由をつけて、「うばう」その行為をしておきながら、あんたは何にもできないんだからと怒り

   始める。まったく可笑しい話である。

    自分が自分を基準に、下手とかどんくさいとか、劣っていると感じている人に対してはより慎重にな

   らなければ、相手の成長や潜在能力を「うばう」ことになってしまう、特に社会的にもリハビリという

   言葉が、その本質を知らないままに、一人歩きしていて、80や90歳の人もリハビリに通っているのなど

   と会話する時代である。そのような時代だからこそ、成長や能力、できることできない事を詳細に分析

   した援助を行わなければ、援助が「うばう」という行為になってしまうこともあるのではないだろうか。

    欲望を満たし、快を得て、満足するのは相手の方、自分は相手がそのことを得た時、快を得て満足を

   得ることになる。その時初めて援助する側と援助される側、両者に満足が訪れるのではないだろうか。

    「うばう」行為をしているのかいないのか、そのことを日々点検する事で、対人援助力というものが

   向上するのではないだろうか。

    来る年もまた対人援助力向上の年としたいものである。天井はないものに向かう勇気を得たいもの

   である。

    

    



    

迷歩録  かんしょう

2016-12-28 10:12:35 | 日記
  <strong>雨やんで  青澄み渡り  静かなり  師走の人や  急ぎ足かな

                            ひのひら  ろくべえ




    「かんしょう」(干渉)とは、他人の物事に強いて立ち入り、自己の意思に従わせようとすること。

    つまり干渉とは、相手の人権など無視して自分の思うようにしてしまうことと言う風に解釈すれば

    世話と干渉の違いが明確になるのではないだろうか。対人援助の場で最も多い間違いがこの干渉と

    世話との間違いではないだろうか。援助者は世話をしているつもりでも、クライアントにとっては

    干渉されているだけと感じる場面が多いのである。その時に使われることが施設の規則ですから、

    仕方がないから、などの言葉を織り交ぜながら強制的に話も聞くことなく当たり前のように、おし

    つける援助をすることではないだろうか。

     人間は環境の動物だから「郷に入れば郷に従え」という諺があるように、新しい環境での主義主

    張はなかなかしずらい。ましてや福祉、教育、医療というような上下関係が構築されている場での

    クライアントという、弱い立場では到底無理な事ではないだろうか。だからこそ、援助者は干渉的

    にならないよう、最善の配慮をして、かかわることが大事なのだが、目先の仕事をしなければなら

    ないということに追い回され、本来の援助とは何か、世話とは何かを忘れた行動をとることが多く

    なるのではないだろうか。

     人間は干渉的にかかわられると、心を閉じてしまう、それは危険というプロセスを悟るからで

    あろう。そうなってしまえば、信頼関係どころでなく、日常的なコミュニケーションすらままな

    らないということになってしまう。そうなると援助者に焦りみたいなものが生まれ、ますます干

    渉的かかわりとなってしまう。悪循環を心の奥底でしてしまう結果となるのではないだろうか。

     対人援助の捉え方の中で、援助か、世話か、干渉かは大事なキーワード、このことを整理して

    対人援助という行為を行う事をお勧めしたい。勿論ボランティアという行為もである。興味本位

    や干渉的な援助ほどクライアントにとって迷惑なものはないことを知ったうえでの援助という行

    為を行いたいものである。世話過ぎたるは干渉である。小さな親切大きな迷惑ということだって

    ある。すべては援助する側の問題、よく考えた行動を行いたいものである。

迷歩録  おさめる

2016-12-27 09:52:27 | 日記
  風強く  大木揺れる  野里かな  来る年準備  気持ちばかり



                             ひのひら  ろくべえ



    「おさめる」一年の年の瀬は、様々な物にけじめをつけて、新年に新たな気持ちで向かう

    そのようなけじめをつけるというので「おさめる」などと言うが、「おさめる」とは、修

    める、納める、治める、収めるなどの同音異語が存在する。治めるの意は混乱している事

    物を安定した状態にする。修めるは、乱れをただす、収める納めるは物事を落ち着ける所

    に落ち着ける。と広辞苑にはある。

     漢字ではなくひらがなで「おさめる」と現した場合、このすべての意味を含みながら、

    TPOの応じた使い方を読み手あるいは聞き手が判断するということになる。言葉の難

    しい所である。コミュニケーションのほとんどは言語的つまり言葉だと思っている人も

    いるようだが、この「おさめる」のように発音だけでは、意味が伝わらないことが多い

    ということを知ってほしいものである。そこで人間は、非言語的な、身振り手つき目線

    言葉の強さ、イントネーション、その場の雰囲気など様々な物を組み合わせて、伝わっ

    てくることを理解しょうとしていることを知ることが大切ではないだろうか。

     「おさめる」行動と言うよりかは、「おさめる」意識が大切なのかもしれない。この

    一年の自分を「おさめる」精神的に整理をするということの大切さが「おさめる」とい

    う言葉の中に含まれる時期それがこの年末ということになるのかもしれない。

     対人援助の場は、日常的に目まぐるしく変化をしていく、その変化の中でただ単に、

    流れに乗ってるだけとか、流されているだけになったなどの思いを巡らす者は多いので

    はないだろうか。そうならないためにも精神的に「おさめる」ケジメをつけるという精神

    活動をすることで、自分という者の整理整頓が精神的につくのではないだろうか。そのこ

    とがとても大切で、それをしたことで新しい年の夜明けも見えてくるのではないだろうか。

     長い暗いトンネルの向こうに、一点の明かりが見えるように、平凡な日常が見えれば、

    それでいいのであろう。自分を「おさめて」新たなる自分を目指したいものである。この

    体験こそが、対人援助の場で無形ではあるがクライアントに好影響を与える者となるであ

    ろう。生き方のモデルとしての対人援助職を目指したいものである。

迷歩録  けんげ

2016-12-26 10:06:29 | 日記
  曇り空  わずかな陽射し  掃除かな  晦日の月に  汚れを落とす


                               ひのひら  ろくべえ




    「けんげ」とは漢字では「見解」と書く。もともとは仏教用語なのだがとても大切な言葉である。

    その意味は広辞苑によると、本質を見極めるとある。本質を知り本質を見極めるとはどのような事であるか

    自分が自分である、自分としてえ成り立たせている核のようなものとでもいうか、例えば火が燃えている火の

    本質は燃えてる物ということになる。火が本質ではなく「けんげ」的には、火をつくりだしてる、燃えている

    物は何なのかという所に本質を見る。

     この視点はとても大切で、魚釣りをする時、潮の流れや、風向き、水温、など様々な見えるものから、その

    奥にある水中と、魚の動きを解しようと、経験、知識をフル活動させて予測でなく解ろうとする。このような

    行動を総称して「けんげ」というのではないだろうか。

     対人援助の中で、このことが如何に大切か、知ることが求められる。対人援助の中心的課題でもあるのかも

    しれない。つまり現象から何を理解して、その理解に基づいてどのようなケアをしようとしているのかが大切

    なのではないだろうか。

     ご飯を食べない、という現象から食欲がないということはだれにも解る、さらになぜ食欲がないのか、一時

    的か、長期に渡るのか?身体的問題なのか、精神的問題なのか、このぐらいまではだれでも思うのであるが、

    さらにプロは、何故そのような現象に至っているのかを解ろうとする。身体的問題であれば、消化器官の問題

    か、あるいは呼吸器官の問題か、循環器の問題か、予測して観察訊き取りをする。精神的問題であれば、家族

    との関係など人間関係の問題なのか、それとも自分自身の問題なのか、訊き取りをしながら、その本質を突き

    止め、援助に活かそうとする。このような行動を「けんげ」というのであろう。

     「けんげ」を行うには、経験と知識が必要なことを理解していただいたと思う。この知識と経験は、自分自

    身に素直になることで獲得できるのではないだろうか。

     つまり知らないものは知らない、経験していないものはしていない、忘れているものは、忘れたとういう自

    分を持つことで、「けんげ」という行動がとれるのではないだろうか。

     教育も、福祉も医療も「けんげ」が基本、その「けんげ」を実行する者こそ、プライドでなく、素直さを持

    つ、その素直さで、杓子定規に相手を評価するのでなく、その人の杓子定規を理解することが大切なのであろ

    う。クライアントの味方になることこそが大切な仕事、上から目線で評価することが仕事ではない、

     「けんげ」を実行できる対人援助者を目指す者こそが対人援助プロフェショナルではないだろうか。