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迷歩録   もう、まだ

2017-08-31 13:51:15 | 日記
  涼しさや  朝顔開く  夜明けかな  八月末の  高隈麓


                              <strong>ひのひら  ろくべえ





    今年も八月が終わりとなり、「もう」八月と思う人、「まだ」八月と思う人、様々だろうが、このどちらかが

   頭に浮かぶかで、その人の人生までもが見えてくるのではないだろうか。

    「もう」という言葉は、もはや。すでに。やがて。まもなく。このうえに。さらに。という意味があるそうな

   (広辞苑より)良く日常的に使う言葉である。特に自分の価値観が相手の価値観と差が大きい時、言葉を強調す

   る時に、始めにつけることが多いのではないだろうか。よく使われる食事場面では「もう」食べたの、「もう」

   ないのなど、自分が欲ししていた物がすでにない時など、強調される時に使われるのではないだろうか。

    「もう」八月と感じる人は基本的には、充実した月日を送って来たと思っていいのであろう。ここに含まれる

   「もう」は、時間の早さを感じている自分ということになる。この速さを感じている時は、充実している時である。

   言い換えれば集中している時、時間の経過が早いのと同じことが言えるのであろう。つまり良くも悪くも、出来事

   が沢山あって、充実しているということではないだろうか。その中には苦痛となる出来事もあるだろうが、そのこ

   とも含めて、人生の起承転結があるということではないだろうか。

    自分の欲していた物が、他者によってなくなった時なども「もう」無いのなどと表現する。「もう」という言葉

   が出た時点で、その人も欲しかったのだ言うことが解る。このようにコミュニケーションの時、その人がどのよう

   な言葉に言葉をつけて強調するかで、相手の心理を掴むことができるのではないだろうか。

    次に「まだ」である。「まだ」八月かと感じる人は、将来にすごく楽しみなことが待っているか、それとも日々

   の生活が苦痛の連続かどちらかではないだろうか。楽しみがあり、そのことを首を長くして待つ時「まだ」という

   時間的協調語を付け加えることが多いのではないだろうか。

    コミュニケーション的には、自分の時間が保障されない時などは「まだ」という待ちどうしいことを意味してこ

   の言葉を発することが多いのではないだろうか。特に対人援助の場では、生理現象を援助者が待つ時、ついつい、

   催促することがある。その時「まだ」などと声をかける時があるが、この声かけは禁句である。「まだ」ではなく

   「どうですか」とか「ふぐわいはないですか」「こまったことはないですか」など、より具体的に相手を傷つけな

   いような配慮をした言葉かけが必要となるのであろう。「まだ」「まだ」と急かされても、相手は焦るばかりで、

   目的を達することにはほど遠くなる。効果的な声掛けというものを学ぶことが大切であろう。

    いずれにしても、「もう」とか「まだ」という言葉はコミュニケーション上ではあまり使わない方がいいのでは

   ないだろうか。特に親と子供、先生と学生、援助者とクライアントと言った、無意識に上下を感じる関係の中では

   簡単に発した強調語であっても、相手にとっては二倍にも三倍にも強調されて伝わることもある。それ故に「もう」

   「まだ」という言葉を使う時は、慎重に意識して使う事を心がけたいものである。

迷歩録    はんだん

2017-08-30 14:46:46 | 日記
 <strong> 涼しさや  夜明けの野里  そよ風に  民謡踊る  秋桜の群れ



                                 <strong>ひのひら  ろくべえ




    昨日のミサイル騒動、国の指導部は事前に知っていたのか否か、議論されている。非常警戒情報(ジェイアラート)

   を流し、国民に危機を知らしめたが、その放送内容が賛否両論の渦の中にあり、問われるのは国の、あるいは地方自

   治体の「はんだん」能力ではないだろうか。そういった意味でも危機能力やリスクマネージメントが未熟であることが

   解る。例えば日本全国に避難豪あるいは地下街と言ったものがあるわけでもない、そのことを繰り返し放送されても、

   国民は戸惑うばかりである。頑丈な建物もない、畑の真ん中で早朝から農作業している人。海の真ん中で魚取りをして

   いる人、通勤途中にある人、車の運転をしている人、様々な人が存在することへの配慮無しに、ワンパターンの放送を

   耳にたこができるほど流し、危機感だけを煽り、その対策はお粗末でしたと言うのであろうか。

    いずれにしても国全体のリスクマネージメントの愚かさを露呈した結果となってしまった。観光立国を謳う日本だが

   そのための安全を確保する対策には遅れがあるのではないだろうか。つまり国全体のリスクマネージメントに対する意

   識の低さがあるのではないだろうか。

    リスクマネージメントという考え方が広がったのが、阪神大震災が起きてから後である。それまでは危機管理という

   ことでさえ置き去りにしていた日本である。高度経済成長のみに力を入れ、付随する危機管理、リスクマネージメント

   に対する考え方の遅れが、いみじくも隣国のミサイル発射によって知らしめられたことを胸の奥に刻み込むべきではな

   いだろうか。

    リスクマネージメントは、その時その時の立場や、役職、国民一人一人に必要とされる問題である。行政が、政治が

   悪いという前に、生きていくことへのリスクマネージメントを考える力、つまり「判断力」という力を備えられる国民

   となることが大切な精神ではないだろうか。国を護る国土を護る、ということは経済性や軍事力だけではない、国民一

   人一人の精神力そのものが、知性の向上こそが大切な防衛の基礎ではないだろうか。

    リスクマネージメントとは、如何なる場であっても、ありとあらゆる場面を想定して、対策を立てること、避難訓練

   もその一つだが、その時一人一人がどのように「はんだん」して、どのように動くのかそのことを、予測した対策こそ

   が有効な方法なのであろう。

    対人援助の場では基本の基本である。そのことを国民全体が知りうる方法としなければならないのではないだろ
うか。

迷歩録   てさぐり

2017-08-29 13:27:19 | 日記
  <strong>飛翔体  隣国飛ばす  葉月朝  ジェイアラート流れ  テレビをジャック


                                     ひのひら  ろくべえ





     今朝隣国がまたミサイルを発射、威嚇なのか実験なのか定かでないが、隣国とのコミュニケーションは「てさぐり」

    人間と人間のコミュニケーションも、最初は「てさぐり」状態、関係性が徐々にできていく中で、相手を理解しょうと

    気持ちが働き、関係ができていく。

     しかし、国と国とではそうもいかないのか、チキンレースはエスカレートしながら進んでいる。特に大国と北の国は

    コミュニケーションがうまくいかないのか、日本のマスコミがそこだけを捉えているのか解らないが、近隣の国々を巻

    き込んでの騒動は堪忍してほしいものである。

     人間同士のコミュニケーションも同じようなことが起きる。敵対する者同士が同チーム内にいると、チーム内が乱れ

    てしまうことは良くある。つまり、コミュニケーションの乱れが、チームワークに影響を与え、日常的な仕事の遂行に

    まで、影響を与え、そのことが、大事故や職場内トラブルに発展することがある。

     特に対人援助の場における、コミュニケーション不成立というものは、様々な場面での作業の遂行を妨げることとな

    り、そのことが援助サービスそのものの質を低下させることにもなる。

     コミュニケーションは、援助活動の中心をなすもの、特にクライアントだけでなく、チーム内コミュニケーションが

    最も重要である。このことをチームの発展課題として位置づけ、取り組みを行う必要があるのではないだろうか。

     人と人、国と国、人間同士共存をして互いに認め合いながら、互いの成長を願い生きて行けるような地球上でありた

    いものである。そのためには常に良好な関係性を互いに「てさぐり」しながら発展させることが必要であろう。

迷歩録   ぎょうざのかわ

2017-08-28 14:02:14 | 日記
  葉月末  頬を揺らす  涼風や  命を伸ばす  やすらぎの風



                                ひのひら  ろくべえ





      「ぎょうざ」という食品は今や国民食であろう。この餃子というものは、様々な食品を細かく刻み

     皮と呼ばれる小麦粉で作られたもので、包み、それを焼いて様々な、たれをつけて食する。

      この様々な細かく刻まれた食材を包む皮こそが命の食品であろう。ある意味人間の世界と似ているのでは

     ないだろうか、つまり様々な人が集まる所には、その人達を包む皮的存在の人が必要ということになる。教育

     の場も、福祉の場も、医療の場も、その餃子の皮となる人は、対人援助職ということになる。皮は強くもなく

     弱くもなく、厚すぎず薄すぎず、微妙なバランスを保つ、そのバランスを焼かれても茹でられても保っことで

     誰もが美味しいと感じる餃子となれる。

      対人援助を行うものもまた同じであろう、様々なを援助という皮で包み込み、それぞれが自分という存在を

     感じられるよう包み込むことが大切なのではないだろうか。そのように考えると、知人援助職というのは、餃

     子の皮のような役割を持つ職業であるということができるのであろう。

      餃子の皮のような役割がこなせる、対人援助職者となりたいものである。

迷歩録   のこり夏

2017-08-26 10:12:28 | 日記
                  のこり夏






          夏も終盤

          蝉たちも

          ひと夏の終わりを

          鳴きつくす

          楽しかった日々を

          走馬燈のように

          想い浮かべながら

          最後の恋を求めて

          鳴きじゃくる

          茜が飛び交うのを眺めながら

          残された夏を惜しむように

          鳴く

          時に夕立が過ぎて行く

          そのことにも耐えながら

          鳴く

          蝉の華やかな時間は

          あとわずか

          のこりの夏に

          全てをかけて

          鳴く

          暑さが涼しさに

          静かに変わっていく

          早く相手を見つけなければ

          鳴く