世間ではイスラム国に捕まったジャーナリスト・後藤さんの事件が連日報道されています。
なかなか進展しない交渉の中で、デビ夫人が「いっそ自決をしてほしい」というメッセージを発したところ、「正論!」と称賛する声がネット上で多数ありました。しかし本当にそうでしょうか?
人間は生きていく上で様々な関わりを必要とします。それを社会と呼び、その最少の単位は家族です。さらに関わりが増えれば、地域や共通の利益団体などにより関係範囲が拡大して、地域、会社、地方自治体などの社会集団につながっていきます。
そして各々の社会を維持するためにはルール=「秩序」が必要となります。実は国家もそうした一定の「秩序」に支えられた社会集団の一つです。
ただし国家が他の社会集団と違う最大の特徴・特権は、秩序を守るために「力」が合法化されていることです。その究極の形が国家間の秩序を守る軍隊です。
秩序を乱した者は社会から罰せられます。
農村なら村八分に、利益を追求する会社なら首になり排除されますが、国家の場合は、まずは警察と司法=「力」で、国民が国の秩序を乱さないように監視指導します。
あるいは国民の暮らしを安定させ「利益」を誘導することで未然に防ぎます。時には「価値観」を共有して一体感を持たせます。例えば君主を称え、国旗、国歌などを奨励するように。これが国家の基本的な姿です。さらに近代国家というものは、国家と国民が支配から対等な関係性へと移行した姿です。
さて、それを踏まえ今イスラム国で起きている人質事件を日本はどう考えればよいでしょうか。
秩序を保つためにも、日本国は海外で人質となった後藤さんを守る義務があります。それは彼が日本国民であり、さらにイスラム国に渡った理由は人道的なものであり、国の法=「力」を犯したわけではないからです。
にもかかわらず彼を見捨ててしまったら、日本国民は正当な理由もなくある日突然、彼と同じように安定した暮らし=「利益」を奪われて、国が守ってくれる保証がないという疑念を持たせてしまう可能性があります。
後藤さんは国家を裏切ったわけでもありません。つまり国家を維持していくための秩序を後藤さんは何一つ意図的に破壊しようとしたわけではありません。実際に国民の多くは「アイアムケンジ」と彼の人道的な行動に共感し、「価値観」を共有しています。
デビ夫人が言う「国家、国民に迷惑をかける」とはどういうことでしょうか。
彼が拘束され、あのような状況に陥ってしまったのは彼個人の責任だけではなく(全く無いと言っているわけではありません)、個人の力ではどうしようもない、もっと大きな国家間の政治・パワーゲームの渦中に巻き込まれた結果です。だからこそ日本国民である後藤さんを日本は守る必要があるのです。
彼が拘束されようがされまいが、日本は秩序を維持するために、すなわち国民のために、中東の複雑な情勢の中で政治的にベストな振る舞いを模索しなければいけません。
たまたま彼の行動が、政府の交渉過程で不安要素を増やしてしまったわけです。
それをあたかも彼が法に触れたかのように扱い、「いっそ自決してほしい」と軽々しく言えてしまうのは、デビ夫人がかつて大統領夫人という秩序を維持する「権力」側にいたからこそ言える言葉だと思うのです。
一般の国民ならば、本来ならそんなことは言えません。なぜなら、彼は日本の法律には何一つ触れたわけではなく、従って故意に秩序を出だしたわけではないからです。
にもかかわらず、彼の行動を庶民のわれわれまでが批判してしまったら、それは自然災害に遭ってしまった人に、あるいは被災地にいる子供を助けてほしいと懇願する親に「そんなところに住んでいたのが悪い」と言ってしまうことと同じです。
だからデビ夫人の言葉に、「正論だ!」と堰を切ったように軽々しく追従してしまうのは、実は権力者ではない自分たちの首を絞めることにならないか冷静に考えなければいけないと思うのです。
今もっとも注視すべきは、国家の秩序を守ることに加え、近代国家として基本的な「国民の人命を優先する」ということに、日本という国がどれだけ真剣に向き合っているかを、国民がしっかりと見届ける必要があると思います。
その後、後藤さんが殺害されたという報道が流れました。本当であれば、残念でなりません。引き続き無事であることを祈ります。
なかなか進展しない交渉の中で、デビ夫人が「いっそ自決をしてほしい」というメッセージを発したところ、「正論!」と称賛する声がネット上で多数ありました。しかし本当にそうでしょうか?
人間は生きていく上で様々な関わりを必要とします。それを社会と呼び、その最少の単位は家族です。さらに関わりが増えれば、地域や共通の利益団体などにより関係範囲が拡大して、地域、会社、地方自治体などの社会集団につながっていきます。
そして各々の社会を維持するためにはルール=「秩序」が必要となります。実は国家もそうした一定の「秩序」に支えられた社会集団の一つです。
ただし国家が他の社会集団と違う最大の特徴・特権は、秩序を守るために「力」が合法化されていることです。その究極の形が国家間の秩序を守る軍隊です。
秩序を乱した者は社会から罰せられます。
農村なら村八分に、利益を追求する会社なら首になり排除されますが、国家の場合は、まずは警察と司法=「力」で、国民が国の秩序を乱さないように監視指導します。
あるいは国民の暮らしを安定させ「利益」を誘導することで未然に防ぎます。時には「価値観」を共有して一体感を持たせます。例えば君主を称え、国旗、国歌などを奨励するように。これが国家の基本的な姿です。さらに近代国家というものは、国家と国民が支配から対等な関係性へと移行した姿です。
さて、それを踏まえ今イスラム国で起きている人質事件を日本はどう考えればよいでしょうか。
秩序を保つためにも、日本国は海外で人質となった後藤さんを守る義務があります。それは彼が日本国民であり、さらにイスラム国に渡った理由は人道的なものであり、国の法=「力」を犯したわけではないからです。
にもかかわらず彼を見捨ててしまったら、日本国民は正当な理由もなくある日突然、彼と同じように安定した暮らし=「利益」を奪われて、国が守ってくれる保証がないという疑念を持たせてしまう可能性があります。
後藤さんは国家を裏切ったわけでもありません。つまり国家を維持していくための秩序を後藤さんは何一つ意図的に破壊しようとしたわけではありません。実際に国民の多くは「アイアムケンジ」と彼の人道的な行動に共感し、「価値観」を共有しています。
デビ夫人が言う「国家、国民に迷惑をかける」とはどういうことでしょうか。
彼が拘束され、あのような状況に陥ってしまったのは彼個人の責任だけではなく(全く無いと言っているわけではありません)、個人の力ではどうしようもない、もっと大きな国家間の政治・パワーゲームの渦中に巻き込まれた結果です。だからこそ日本国民である後藤さんを日本は守る必要があるのです。
彼が拘束されようがされまいが、日本は秩序を維持するために、すなわち国民のために、中東の複雑な情勢の中で政治的にベストな振る舞いを模索しなければいけません。
たまたま彼の行動が、政府の交渉過程で不安要素を増やしてしまったわけです。
それをあたかも彼が法に触れたかのように扱い、「いっそ自決してほしい」と軽々しく言えてしまうのは、デビ夫人がかつて大統領夫人という秩序を維持する「権力」側にいたからこそ言える言葉だと思うのです。
一般の国民ならば、本来ならそんなことは言えません。なぜなら、彼は日本の法律には何一つ触れたわけではなく、従って故意に秩序を出だしたわけではないからです。
にもかかわらず、彼の行動を庶民のわれわれまでが批判してしまったら、それは自然災害に遭ってしまった人に、あるいは被災地にいる子供を助けてほしいと懇願する親に「そんなところに住んでいたのが悪い」と言ってしまうことと同じです。
だからデビ夫人の言葉に、「正論だ!」と堰を切ったように軽々しく追従してしまうのは、実は権力者ではない自分たちの首を絞めることにならないか冷静に考えなければいけないと思うのです。
今もっとも注視すべきは、国家の秩序を守ることに加え、近代国家として基本的な「国民の人命を優先する」ということに、日本という国がどれだけ真剣に向き合っているかを、国民がしっかりと見届ける必要があると思います。
その後、後藤さんが殺害されたという報道が流れました。本当であれば、残念でなりません。引き続き無事であることを祈ります。