遅ればせながら美味しんぼ第604話を見ました。残念ながら今秋発売された最新号(最終号)はまだ見ていませんが・・・。
読んでみてどうしてここまで大きく取り上げられるようになったのか不思議に思いました。いや、放射能と向き合いたくない人たちや、情報をコントロールしたい側(管理する側の人たち)にとっては都合が悪い内容だったということは判りましたが。
鼻血が出たというのは、実在する登場人物が個人の見解や経験として述べているわけです。つまりソースの一つにすぎない。
あえて問題点を挙げるとしたら、その証言に基づき、フィクションである漫画の主人公たちまでもが鼻血を出したことが、ソースの信憑性をより高めてしまったということかと思いますが、それは表現の自由という範囲内ではないかと感じました。
「福島には住めない」という福島大学の先生の発言もセンセーショナルですが、一個人の見解に過ぎません。
一方で「美味しんぼ」ではそれ以前一年以上にわたり、福島で農業を続ける人たちを丁寧に拾い上げていました。ボクもその一人として2012年5月に取材を受け、2013年3月に掲載されています。
程度の差はあれ、福島に、いや東日本の広範囲にわたって放射能が降ってしまったことはまぎれもない事実です。そしてそんな状況下で、今でもボクは会津で農業を続けています。それは放射能を忘れたからでも、安全だと認識したからでもありません。放射能と向き合って生きていくことを決めたからです。
我々が最も優先すべきこと、守るべきものは何か? それは子供の未来であり、人の生命であると思います。そう思いながら、放射能が降ってしまった土地で暮らし、子育てをし、農業を続ける。
それは取り返しのつかない過ちを起こしてしまったことを悔い、少しでも清浄な土、安心な社会を取り戻し未来へ繋いでいく努力こそが、この社会を構成する人間の責務であると感じているからです。
人によっては、そんな汚染されたところで食糧を生産し子育てを続けることは、自分勝手であり、子供の未来を奪う極悪行為ではないかと批判される方もいるでしょう。その意見にも真摯に耳を傾けなければなりません。
ゆえに、出来上がった作物を測り、健康に障害が出るほどの放射能汚染とはどの程度なのか常に気にしながら、情報収集に努めているつもりです。
(住み続けているということは、この程度の汚染なら子供たちも大丈夫であろうと今まで得た情報から信じている、あるいは覚悟しているからでもあります。)
まず放射能汚染はあったこと。その事実とどう向き合って、乗り越えていくか。それは自分に不都合な情報に目をつむることではありません。今回「美味しんぼ」に掲載された内容については特別新しい情報が盛り込まれているわけでは無い。過去3年間散々目にして混乱させられてきた数多くの情報の一部であって、全てを覆すようなものではないのです。
県民の多くは既に経験してきたことであり、それを乗り越えて今がある。
放射能と向き合うことを余儀なくされた人にとって一番必要なのは安心です。安心はきめ細かい情報公開よって初めて生まれるものです。
だからこそ、多くの科学者や医療関係者、そして国や行政、マスコミの発表する情報を求めています。しかし国や行政、御用学者が発する、何か統制の匂いのする一方的な情報や見解だけでは残念ながら安心できない。
よって一つのソースに頼らず、日々様々な情報を入手する努力を続けている。そしてそのソースを受け入れるか否かはその人それぞれの価値観に基づくことも知っている。それはこの3年間、放射能を受け入れて生きるという同じ目的を持っていても、価値の相違によって「分断」が生まれたことを経験してきたからです。
当たり前のことですが、持っているものや信ずるものを否定されたり、壊されれば誰でも怒ります。しかしそもそも何も持っていなければ、否定されることも壊されることもない。穏やかな暮らしを放射能汚染で無茶苦茶に壊され、放射能と向きあおうと覚悟を決めてたくましく生きてきた県民にとって、今回の騒動であらたに壊されたものなんて何もありません。
多くの人はそう考えているし、だからこそ「美味しんぼ」の内容についても鵜呑みにすることなく、冷静に見ている人も多いはずだと私は思います。
もちろん今回の騒動で憤っている県民もたくさんいることでしょう。しかしその多くは、放射能により、ふるさとや家族、ささやかな幸せを奪われたことに端を発し、福島だけが特別汚れているわけではないのにという、やり場のない怒り。
あるいは汚染水漏れ等新たな問題が報道されるたびに繰り返されてきた県産農産物の価格下落や、観光客のキャンセルなどの影響を受けやすい立場の人たちなど。
要するになかなか届かない「福島は特別ではない! ここで穏かに暮らしたい!」という叫びでもあると思うのです。
そして国や行政が躍起になって抗議している理由もそこにある。ただしそれはあくまでも表向きであって、実際のところ彼らは県民に寄り添って、県民に不利益が発生することを心配しているのではない。ましてや県民の健康や不安、心的ストレスを心配しているのでもない。
「福島は特別ではない!」ということころまでは一致しているけど、実は放射能とはまともに向き合っていません。
むしろ、せっかく上手く情報を管理(=安倍さんのいうアンダーコントロール。ただし原発ではありませんけど)できそうだったのに何をするんだと言っているのです。
「放射能汚染は大した問題ではなかった、健康被害はこの程度では生まれない、福島は特別ではない」とこの3年間せっせと積み上げてきて「くさいものにはフタをする」という一番手っ取り早い復興の手法に不都合だからなのです。
それは情報公開が常に後手に回り、住民の健康不安、特に低線量被曝に対する不安に真摯に向き合おうとしてこない今までの国や行政の態度からあきらかです。
つまり今回の一件を触れて騒いでいる人たちは、放射能と向きあう覚悟を決めたたくましい被害者=一般県民ではなく、放射能を見えなくし、上手くコントロールしたい人=管理する側の人たちが、この間着々と築き上げてきた「福島は汚染を乗り越え復興する」と言う極めて陳腐なシナリオの邪魔をされ、焦っているだけのことだと思うのです。
同時に「美味しんぼ」を見て、やっぱり福島って危ないんだと思い込んでしまう人たちも、(これでは風評被害を助長してしまうのではないかと憤慨してしまう人たちと同様)放射能と向き合わずに耳を塞いできた結果として生まれていることを、この機会に強く自覚してほしいと思います。
今回の騒動で多かった声の一つは、低線量被曝で本当に鼻血が出るか否かを科学的に検証すべきということでした。一つのソースを誹謗中傷と決めつけず、科学的に精査していく。この姿勢は正しいと思う。(国はその責任があるにも関わらず、いまだに低線量被曝の健康被害調査をろくにしていない。)
この過程を飛び越して、今回の騒動の内容を真実と鵜呑みにするのは、管理する側からすると結局都合の良いアンダーコントロール予備軍と目されてしまうことでしょう。
そしてそんな予備軍たちの行動一つ一つが、管理する側の主張する「風評被害」へと結びつき、結局は放射能と向き合いながら生きている人たちを苦しめます。管理する側は増々都合の良い情報しか開示しなくなり、臭いものにさらに重たいフタをする理由となる。結局彼らの思うツボというわけです。
低線量被曝は危険、福島には住めない、福島のものを買わないと思う人でも、しっかりと放射能に向き合うことが、今の社会を生きる人間としての未来の子供への責務だとボクは思います。
管理する側にこれ以上いいようにやられないためにも。
読んでみてどうしてここまで大きく取り上げられるようになったのか不思議に思いました。いや、放射能と向き合いたくない人たちや、情報をコントロールしたい側(管理する側の人たち)にとっては都合が悪い内容だったということは判りましたが。
鼻血が出たというのは、実在する登場人物が個人の見解や経験として述べているわけです。つまりソースの一つにすぎない。
あえて問題点を挙げるとしたら、その証言に基づき、フィクションである漫画の主人公たちまでもが鼻血を出したことが、ソースの信憑性をより高めてしまったということかと思いますが、それは表現の自由という範囲内ではないかと感じました。
「福島には住めない」という福島大学の先生の発言もセンセーショナルですが、一個人の見解に過ぎません。
一方で「美味しんぼ」ではそれ以前一年以上にわたり、福島で農業を続ける人たちを丁寧に拾い上げていました。ボクもその一人として2012年5月に取材を受け、2013年3月に掲載されています。
程度の差はあれ、福島に、いや東日本の広範囲にわたって放射能が降ってしまったことはまぎれもない事実です。そしてそんな状況下で、今でもボクは会津で農業を続けています。それは放射能を忘れたからでも、安全だと認識したからでもありません。放射能と向き合って生きていくことを決めたからです。
我々が最も優先すべきこと、守るべきものは何か? それは子供の未来であり、人の生命であると思います。そう思いながら、放射能が降ってしまった土地で暮らし、子育てをし、農業を続ける。
それは取り返しのつかない過ちを起こしてしまったことを悔い、少しでも清浄な土、安心な社会を取り戻し未来へ繋いでいく努力こそが、この社会を構成する人間の責務であると感じているからです。
人によっては、そんな汚染されたところで食糧を生産し子育てを続けることは、自分勝手であり、子供の未来を奪う極悪行為ではないかと批判される方もいるでしょう。その意見にも真摯に耳を傾けなければなりません。
ゆえに、出来上がった作物を測り、健康に障害が出るほどの放射能汚染とはどの程度なのか常に気にしながら、情報収集に努めているつもりです。
(住み続けているということは、この程度の汚染なら子供たちも大丈夫であろうと今まで得た情報から信じている、あるいは覚悟しているからでもあります。)
まず放射能汚染はあったこと。その事実とどう向き合って、乗り越えていくか。それは自分に不都合な情報に目をつむることではありません。今回「美味しんぼ」に掲載された内容については特別新しい情報が盛り込まれているわけでは無い。過去3年間散々目にして混乱させられてきた数多くの情報の一部であって、全てを覆すようなものではないのです。
県民の多くは既に経験してきたことであり、それを乗り越えて今がある。
放射能と向き合うことを余儀なくされた人にとって一番必要なのは安心です。安心はきめ細かい情報公開よって初めて生まれるものです。
だからこそ、多くの科学者や医療関係者、そして国や行政、マスコミの発表する情報を求めています。しかし国や行政、御用学者が発する、何か統制の匂いのする一方的な情報や見解だけでは残念ながら安心できない。
よって一つのソースに頼らず、日々様々な情報を入手する努力を続けている。そしてそのソースを受け入れるか否かはその人それぞれの価値観に基づくことも知っている。それはこの3年間、放射能を受け入れて生きるという同じ目的を持っていても、価値の相違によって「分断」が生まれたことを経験してきたからです。
当たり前のことですが、持っているものや信ずるものを否定されたり、壊されれば誰でも怒ります。しかしそもそも何も持っていなければ、否定されることも壊されることもない。穏やかな暮らしを放射能汚染で無茶苦茶に壊され、放射能と向きあおうと覚悟を決めてたくましく生きてきた県民にとって、今回の騒動であらたに壊されたものなんて何もありません。
多くの人はそう考えているし、だからこそ「美味しんぼ」の内容についても鵜呑みにすることなく、冷静に見ている人も多いはずだと私は思います。
もちろん今回の騒動で憤っている県民もたくさんいることでしょう。しかしその多くは、放射能により、ふるさとや家族、ささやかな幸せを奪われたことに端を発し、福島だけが特別汚れているわけではないのにという、やり場のない怒り。
あるいは汚染水漏れ等新たな問題が報道されるたびに繰り返されてきた県産農産物の価格下落や、観光客のキャンセルなどの影響を受けやすい立場の人たちなど。
要するになかなか届かない「福島は特別ではない! ここで穏かに暮らしたい!」という叫びでもあると思うのです。
そして国や行政が躍起になって抗議している理由もそこにある。ただしそれはあくまでも表向きであって、実際のところ彼らは県民に寄り添って、県民に不利益が発生することを心配しているのではない。ましてや県民の健康や不安、心的ストレスを心配しているのでもない。
「福島は特別ではない!」ということころまでは一致しているけど、実は放射能とはまともに向き合っていません。
むしろ、せっかく上手く情報を管理(=安倍さんのいうアンダーコントロール。ただし原発ではありませんけど)できそうだったのに何をするんだと言っているのです。
「放射能汚染は大した問題ではなかった、健康被害はこの程度では生まれない、福島は特別ではない」とこの3年間せっせと積み上げてきて「くさいものにはフタをする」という一番手っ取り早い復興の手法に不都合だからなのです。
それは情報公開が常に後手に回り、住民の健康不安、特に低線量被曝に対する不安に真摯に向き合おうとしてこない今までの国や行政の態度からあきらかです。
つまり今回の一件を触れて騒いでいる人たちは、放射能と向きあう覚悟を決めたたくましい被害者=一般県民ではなく、放射能を見えなくし、上手くコントロールしたい人=管理する側の人たちが、この間着々と築き上げてきた「福島は汚染を乗り越え復興する」と言う極めて陳腐なシナリオの邪魔をされ、焦っているだけのことだと思うのです。
同時に「美味しんぼ」を見て、やっぱり福島って危ないんだと思い込んでしまう人たちも、(これでは風評被害を助長してしまうのではないかと憤慨してしまう人たちと同様)放射能と向き合わずに耳を塞いできた結果として生まれていることを、この機会に強く自覚してほしいと思います。
今回の騒動で多かった声の一つは、低線量被曝で本当に鼻血が出るか否かを科学的に検証すべきということでした。一つのソースを誹謗中傷と決めつけず、科学的に精査していく。この姿勢は正しいと思う。(国はその責任があるにも関わらず、いまだに低線量被曝の健康被害調査をろくにしていない。)
この過程を飛び越して、今回の騒動の内容を真実と鵜呑みにするのは、管理する側からすると結局都合の良いアンダーコントロール予備軍と目されてしまうことでしょう。
そしてそんな予備軍たちの行動一つ一つが、管理する側の主張する「風評被害」へと結びつき、結局は放射能と向き合いながら生きている人たちを苦しめます。管理する側は増々都合の良い情報しか開示しなくなり、臭いものにさらに重たいフタをする理由となる。結局彼らの思うツボというわけです。
低線量被曝は危険、福島には住めない、福島のものを買わないと思う人でも、しっかりと放射能に向き合うことが、今の社会を生きる人間としての未来の子供への責務だとボクは思います。
管理する側にこれ以上いいようにやられないためにも。