雪がしまってかた雪になったので、子供たちとハナを連れて堰の様子を見に行ってきました。かんじきを履かなくても十分歩けます。ネコヤナギのつぼみはまだ堅い。まだこんな感じです。1m以上の雪に覆われています。ウサギの足跡。水路沿いをしばらく歩いて帰りました。
いつもの一角をお借りしてミソ用麹つくりを開始。今年は10キロごとの箱を使っての挑戦。
まずは熱いお米を35度くらいまでさまします。冷めたら種麹を振りよく揉んで30センチくらいの高さにまとめて、30~33度くらいで保温。10時間位後に切り替えしという作業。このときもまだほとんど温度は上っていません。翌朝に盛りという作業になります。昔のやり方だと1升ずつ小さな麹蓋といわれるものに盛って数段棚状に積み上げます。でも今回は10キロほど入る箱というものを使いました。途中何度かほぐして菌が均等に回るようにします。ほんとは仲仕事、仕舞仕事とそれぞれほぐす作業があるのですが、ミソ用は菌糸を切らない方がよいそうなので、後半は手を入れず、掛ける布の量などで温度が上がりすぎないよう調整。完成間近。途中ラーメンを一杯。完成です。最高温度43度くらいから10時間以上引っ張ってみました。
まずは熱いお米を35度くらいまでさまします。冷めたら種麹を振りよく揉んで30センチくらいの高さにまとめて、30~33度くらいで保温。10時間位後に切り替えしという作業。このときもまだほとんど温度は上っていません。翌朝に盛りという作業になります。昔のやり方だと1升ずつ小さな麹蓋といわれるものに盛って数段棚状に積み上げます。でも今回は10キロほど入る箱というものを使いました。途中何度かほぐして菌が均等に回るようにします。ほんとは仲仕事、仕舞仕事とそれぞれほぐす作業があるのですが、ミソ用は菌糸を切らない方がよいそうなので、後半は手を入れず、掛ける布の量などで温度が上がりすぎないよう調整。完成間近。途中ラーメンを一杯。完成です。最高温度43度くらいから10時間以上引っ張ってみました。
全国ニュースでは豪雪が話題になっていますが、早稲谷は例年よりやや多い程度でしょうか。むしろ寒さが厳しい印象。ほぼ毎日水道が凍結しています。もちろん水抜きを毎晩していますが。今朝の我が家です。完全に雪に埋没しています。まあおかげで隙間風が減ってかえって暖かかったりするのですが。ダングリ堰水管橋の雪下ろし。雪の多い年は必ず1回やりますが、今年は例年になく積もっている。しかもかた雪で下すのに苦労します。スコップを強く刺さなければならず、バランスを崩しそうなので、途中おっかなくなってやめてしまいました。雪庇もすごい。ご近所の空き家の納屋が雪の重みで倒壊してしまいました。中には陶芸用の電気窯が入っているのですが・・・。奥の蔵の屋根もやばい。他にも空き家が一軒つぶれてしまっています。雪が降りすぎると犬も喜んで庭を駆け回ることはありません。
五十嵐藤彦さんのお宅で「ソエビキ」の話を聞いたので備忘録も兼ねて
五十嵐藤彦さんは早稲谷でも篤農家として知られた人で、田んぼだけでなく公社造林の作業を請け負うなど林業などもやっていた方です。ボクが鶏小屋を建てるときに柱用にと間伐材の杉が山に放置されていることを教えてくれました。つまり使いたければ好きに枝を落としてもっていっていいよということです。体力的に大変だったけどとても助かりました。現在藤彦さんは肺気腫になってしまい、田んぼも全てやめてしまいましたので、ボクがその一部を引き継いでいます。
・家が大きかったのでお前は普通の人よりも余計に働かなければ家は維持できないと言われていた。
・だからソエビキ(橇曳きのこと、切り出した木を橇に乗せて車の入るところまで運ぶことをいいます)の仕事も人一倍働こうと早く山に入った。歩合性だから運んだ量によって賃金が決まったが、運んだ木の計測は木のウラ(先)の方の寸法で計算された。早く山に入ればウラの太いよい木を確保できた。
・木の長さは12尺から13尺
・ソエが走りすぎないように藤蔓をまいてブレーキ代わりにした。
・川を渡るためには木を倒して橋にしたが、その上の滑るように雪をまいた。
・一度に積む量は場所、傾斜などの条件で変えていった。
・ソエは自前だった。
・家の裏には金毘羅峠があり、昔はみなこの道を使って徒歩で必要なものは全て背負い、北沢の田んぼや山仕事に向かっていた。いまは使う人がいないので年一回の草刈りは行っているが、すぐに草に埋もれてしまう。
・金毘羅様の祠は渡部家個人の所有で、いまでもお祭りの日の時は、渡部家が金毘羅様に油揚げなどをお供えしている。
・昔はこのほかにも山の神などのお祭りがあってそのたびに部落中でお餅をついていたが、今はだれもやらなくなった。
・役場の仕事はいつも一歩遅く、みな金毘羅峠を使っていたころに北沢林道ができればよかったのに、林道ができたころは、そこで田んぼや山仕事をしている人はだれもいなくなっていた。
ちなみにボクが鶏小屋用の間伐材を切り出したのはまさにこの北沢林道沿いの植林地で、林道はとても重宝しました。が、それも15年前の話。今は確かに誰も使わなくなってしまい、ここ数年の豪雨のたびに法面が崩落し、ワダチが雨水で削られ、軽トラが通るのも困難な状況になっています。
五十嵐藤彦さんは早稲谷でも篤農家として知られた人で、田んぼだけでなく公社造林の作業を請け負うなど林業などもやっていた方です。ボクが鶏小屋を建てるときに柱用にと間伐材の杉が山に放置されていることを教えてくれました。つまり使いたければ好きに枝を落としてもっていっていいよということです。体力的に大変だったけどとても助かりました。現在藤彦さんは肺気腫になってしまい、田んぼも全てやめてしまいましたので、ボクがその一部を引き継いでいます。
・家が大きかったのでお前は普通の人よりも余計に働かなければ家は維持できないと言われていた。
・だからソエビキ(橇曳きのこと、切り出した木を橇に乗せて車の入るところまで運ぶことをいいます)の仕事も人一倍働こうと早く山に入った。歩合性だから運んだ量によって賃金が決まったが、運んだ木の計測は木のウラ(先)の方の寸法で計算された。早く山に入ればウラの太いよい木を確保できた。
・木の長さは12尺から13尺
・ソエが走りすぎないように藤蔓をまいてブレーキ代わりにした。
・川を渡るためには木を倒して橋にしたが、その上の滑るように雪をまいた。
・一度に積む量は場所、傾斜などの条件で変えていった。
・ソエは自前だった。
・家の裏には金毘羅峠があり、昔はみなこの道を使って徒歩で必要なものは全て背負い、北沢の田んぼや山仕事に向かっていた。いまは使う人がいないので年一回の草刈りは行っているが、すぐに草に埋もれてしまう。
・金毘羅様の祠は渡部家個人の所有で、いまでもお祭りの日の時は、渡部家が金毘羅様に油揚げなどをお供えしている。
・昔はこのほかにも山の神などのお祭りがあってそのたびに部落中でお餅をついていたが、今はだれもやらなくなった。
・役場の仕事はいつも一歩遅く、みな金毘羅峠を使っていたころに北沢林道ができればよかったのに、林道ができたころは、そこで田んぼや山仕事をしている人はだれもいなくなっていた。
ちなみにボクが鶏小屋用の間伐材を切り出したのはまさにこの北沢林道沿いの植林地で、林道はとても重宝しました。が、それも15年前の話。今は確かに誰も使わなくなってしまい、ここ数年の豪雨のたびに法面が崩落し、ワダチが雨水で削られ、軽トラが通るのも困難な状況になっています。
ご存知の通り南相馬市は、原発から10キロから40キロ圏に位置し、同じ市内で警戒区域(20キロ圏内)、緊急時避難準備区域(30キロ圏内)、計画的避難区域(飯舘村など)が混在するところです。
国では土壌の汚染が5000ベクレルを超えた田んぼの作付を禁止しましたが、南相馬市では独自に協議し、平成23年は汚染状況に関わらず市内全域での田んぼ作付を断念し、国に補償を求めました。その結果反あたり6万円弱の補償がされたそうです。
南相馬市の土壌汚染は作付禁止レベルを全てが超えていたわけではありません。警戒区域は不明ですが、それ以外はむしろほとんどないくらいでした。が、地震でパイプラインの損傷もありましたし、元々JAや行政が強い地域らしいので、この判断は理解できることでもありました。しかし津波の被害がなかった内陸部の田んぼが、作付されずに荒れていく姿は農家にはとても耐え難いものだったでしょう。
で、今年平成24年の作付をどうするか。先日南相馬市は平成24年も全域で作付しないことを決めたようす。その理由として、前年の23年に作付けしなかったためコメの検査データ蓄積がなく、安全か売れるかの判断材料がそろわないからだとか。しかしこの理由は全く納得いきません。
実は平成23年にすでに市の方針に従わず稲作を強行したつわものが数人いました。その一人、原町区大木戸の安川さんのお米は地下水利用の2地点は玄米47ベクレルと44・7ベクレル、精米37・9ベクレルと20・6ベクレル。川の水利用では玄米で96.6ベクレル以下、白米で53.8ベクレル以下だったそうです。
市の農業の将来を考えたら、むしろこうしたデータを有効に利用することこそ必要かと思います。しかし現実は、安川さんに田植え直後から再三栽培を即刻中止し青刈りするよう勧告があったそうです。そして南相馬市よりも原発から遠いながらも、風向きの関係でより汚染が深刻な中通りでのデータもたくさんあります。それでいて、データがないから24年も作付しないとは・・・。もちろん原発に近いところのお米が売れるのか不明ということもかんがみてでしょうが。
一方で、除染も兼ねて農地を再整備しようとする復興計画を市では着々と進行しています。除染となると作付された田とそうでない田が混在すれば当然効率が悪くなります。故の作付一斉禁止なのか・・・。これって整備事業を進めたいだけなのか、何て勘ぐりたくなります。今農業界は除染よりも移行を防ぐための技術論が主流となっているのです。それなのになぜ除染にこだわるのでしょうか。
南相馬市の農家は今年生まれて初めて他人が作ったお米を一年間食べ続けることになります。きっと来年は再び自分で作ったお米を食べたいと思っているはずです。せめて自給分だけでもよいから作付を認めてあげないと農家は作る気力を失ってしまうのではないかと心配してしまいます。それでなくても反6万円の補償金は手取り金額よりも多いくらいなのですから。
除染して基盤整備して、ふたを開けてみたら農家がいないなんてことがないことを祈るばかりです。
国では土壌の汚染が5000ベクレルを超えた田んぼの作付を禁止しましたが、南相馬市では独自に協議し、平成23年は汚染状況に関わらず市内全域での田んぼ作付を断念し、国に補償を求めました。その結果反あたり6万円弱の補償がされたそうです。
南相馬市の土壌汚染は作付禁止レベルを全てが超えていたわけではありません。警戒区域は不明ですが、それ以外はむしろほとんどないくらいでした。が、地震でパイプラインの損傷もありましたし、元々JAや行政が強い地域らしいので、この判断は理解できることでもありました。しかし津波の被害がなかった内陸部の田んぼが、作付されずに荒れていく姿は農家にはとても耐え難いものだったでしょう。
で、今年平成24年の作付をどうするか。先日南相馬市は平成24年も全域で作付しないことを決めたようす。その理由として、前年の23年に作付けしなかったためコメの検査データ蓄積がなく、安全か売れるかの判断材料がそろわないからだとか。しかしこの理由は全く納得いきません。
実は平成23年にすでに市の方針に従わず稲作を強行したつわものが数人いました。その一人、原町区大木戸の安川さんのお米は地下水利用の2地点は玄米47ベクレルと44・7ベクレル、精米37・9ベクレルと20・6ベクレル。川の水利用では玄米で96.6ベクレル以下、白米で53.8ベクレル以下だったそうです。
市の農業の将来を考えたら、むしろこうしたデータを有効に利用することこそ必要かと思います。しかし現実は、安川さんに田植え直後から再三栽培を即刻中止し青刈りするよう勧告があったそうです。そして南相馬市よりも原発から遠いながらも、風向きの関係でより汚染が深刻な中通りでのデータもたくさんあります。それでいて、データがないから24年も作付しないとは・・・。もちろん原発に近いところのお米が売れるのか不明ということもかんがみてでしょうが。
一方で、除染も兼ねて農地を再整備しようとする復興計画を市では着々と進行しています。除染となると作付された田とそうでない田が混在すれば当然効率が悪くなります。故の作付一斉禁止なのか・・・。これって整備事業を進めたいだけなのか、何て勘ぐりたくなります。今農業界は除染よりも移行を防ぐための技術論が主流となっているのです。それなのになぜ除染にこだわるのでしょうか。
南相馬市の農家は今年生まれて初めて他人が作ったお米を一年間食べ続けることになります。きっと来年は再び自分で作ったお米を食べたいと思っているはずです。せめて自給分だけでもよいから作付を認めてあげないと農家は作る気力を失ってしまうのではないかと心配してしまいます。それでなくても反6万円の補償金は手取り金額よりも多いくらいなのですから。
除染して基盤整備して、ふたを開けてみたら農家がいないなんてことがないことを祈るばかりです。