五十嵐藤彦さんのお宅で「ソエビキ」の話を聞いたので備忘録も兼ねて
五十嵐藤彦さんは早稲谷でも篤農家として知られた人で、田んぼだけでなく公社造林の作業を請け負うなど林業などもやっていた方です。ボクが鶏小屋を建てるときに柱用にと間伐材の杉が山に放置されていることを教えてくれました。つまり使いたければ好きに枝を落としてもっていっていいよということです。体力的に大変だったけどとても助かりました。現在藤彦さんは肺気腫になってしまい、田んぼも全てやめてしまいましたので、ボクがその一部を引き継いでいます。
・家が大きかったのでお前は普通の人よりも余計に働かなければ家は維持できないと言われていた。
・だからソエビキ(橇曳きのこと、切り出した木を橇に乗せて車の入るところまで運ぶことをいいます)の仕事も人一倍働こうと早く山に入った。歩合性だから運んだ量によって賃金が決まったが、運んだ木の計測は木のウラ(先)の方の寸法で計算された。早く山に入ればウラの太いよい木を確保できた。
・木の長さは12尺から13尺
・ソエが走りすぎないように藤蔓をまいてブレーキ代わりにした。
・川を渡るためには木を倒して橋にしたが、その上の滑るように雪をまいた。
・一度に積む量は場所、傾斜などの条件で変えていった。
・ソエは自前だった。
・家の裏には金毘羅峠があり、昔はみなこの道を使って徒歩で必要なものは全て背負い、北沢の田んぼや山仕事に向かっていた。いまは使う人がいないので年一回の草刈りは行っているが、すぐに草に埋もれてしまう。
・金毘羅様の祠は渡部家個人の所有で、いまでもお祭りの日の時は、渡部家が金毘羅様に油揚げなどをお供えしている。
・昔はこのほかにも山の神などのお祭りがあってそのたびに部落中でお餅をついていたが、今はだれもやらなくなった。
・役場の仕事はいつも一歩遅く、みな金毘羅峠を使っていたころに北沢林道ができればよかったのに、林道ができたころは、そこで田んぼや山仕事をしている人はだれもいなくなっていた。
ちなみにボクが鶏小屋用の間伐材を切り出したのはまさにこの北沢林道沿いの植林地で、林道はとても重宝しました。が、それも15年前の話。今は確かに誰も使わなくなってしまい、ここ数年の豪雨のたびに法面が崩落し、ワダチが雨水で削られ、軽トラが通るのも困難な状況になっています。