犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

池田晶子・陸田真志著 『死と生きる・獄中哲学対話』 「池田晶子 9通目の手紙」より

2010-08-03 00:01:51 | 読書感想文
「池田晶子 9通目の手紙」より

p.190~195

 殺人は、公的な罪である以前に私的な罪であることが気づかれているのでなければ、公的に罰することさえ、実は罰する意味を為しません。あなたは、公的な罰としての死刑を、公的なものとして受け容れながら、私的な罰としての自己の苦しみのほうこそを、正当な罰として受けとめている。公私ともに、あなたは自分の「罰」については、十分に認識し、かつ語っているとも思います。けれども、あなたは、自分の「罪」の側については、まだ明確に語っていない。

 やはりあなたの場合には、人と違う特殊な事情があります。言うまでもなく、人を殺した経験を持つという、きわめて特殊な事情です。私には人を殺した経験がありませんし、ヘーゲルだって、ありません。そして、世の絶対多数の人々もそうなのです。だからこそ、そこを知りたい。「人を殺す」とは、いったいどういうことなのかということを、「具体的に」聞いてみたい。「具体的と」いって、犯行状況、その手順がどうのといったことではありません。そんなことは、刑事と検事にまかせておけばいいことです。

 人を殺せば血が流れる、たくさん流れる、だんだん動かなくなる、死ぬ、死んで永久にいなくなる、これは、とんでもないことではないですか。恐ろしいことではないですか。こんな恐ろしいことが現実になるなんて、とんでもないことなので、倫理的判断以前に、人は人を殺さない、正確には「殺せない」のではないか、私にはそう思えるのですが、なぜあなたには殺せたのですか。恐ろしくはなかったのですか。「初めて人を殺す」というのは、どんな「気持」がするものなのでしょうか。

 私の手許に、判決文のコピーがあるのですが、たとえば、<金銭欲を満たすためには手段を選ばず、人命を奪うことも辞さないという被告人両名の自己中心的かつ短絡的な態度が顕著に表れたものである>といったような一節があります。「金が欲しい」ということと、「人を殺す」ということは、全然別のことなのに、なぜそこが「短絡」することができるのか。「人を殺す」というのは、人間の経験のうちで、最も尋常ならざる何事かであるはずなのに、人の世は相も変わらず殺人ばやりで、殺さない側の人々も、もう慣れっこになっているのか、そんな説明で事足りて、それ以上考えてみようともしない。そういう人々が、やはりあまり考えもせずに、次に人を殺すようになるのではないか。


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 人はいつか必ず死んでしまうのに、なぜ生きなければならないのか。人は必ず死ぬのだとすれば、人生の目的は死である。「人は何のために生きているのか」と問われれば、「人は死ぬために生きているのだ」と答える以上に正確な答えはない。「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」。

 「死刑」には「死」が含まれます。そうだとすれば、人々がどんなに死刑を議論したとしても、未だ生を知らない者は死を知らないのですから、知らないものを知らないと知らずに議論していることになります。そして、「死刑」のうちの「死」を忘れたまま、「刑」ばかりが議論されているように思います。これは、死刑制度の賛成・反対のいずれかという問題ではなく、その対立によって「死」を忘れるということです。
 「死刑」のうちの「刑」を語る文献は、それこそ無数に存在しているようです。死刑は他の刑罰とは違い、奪われた命は永遠に戻らないのだという議論も、まさに死刑でなくても人は死ぬという点を見落とし、死刑と終身刑の違いという「刑」だけを語っています。高名な刑法学者が「死刑廃止は私のライフワークである」「死刑廃止をこの目で見るまでは死ねない」と語っているのを聞いたことがありますが、これも同様だと感じます。

 「死刑」のうちの「死」を語るものは、私の知る限り皆無に等しく、この池田氏と陸田氏の対話が日本ではほとんど唯一のものではないかと思います。池田氏は癌で早世し、陸田氏には死刑が執行され、この本で語られている「死」がますますわからなくなりました。「死」を含む「死刑」「殺人」「過失致死」について、生きている人間には何も知り得ないのは当然のことだと思います。