犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

山崎豊子著 『「大地の子」と私』

2010-08-22 23:27:27 | 読書感想文
(平成8年の出版です。)

p.23~

 先ごろお亡くなりになった井上靖さんが、こういってくださったことがあります。「山崎君はテーマの発想がいい。文章力は、たとえば川端康成さんのような特別な人を除けば、作家同士そんな極端な差があるものではない。だとすれば大切なのはテーマだな。山崎君はいつもテーマだけで50点はとっている」
 私には過ぎた言葉ですが、そのテーマの重要性を、文革の場面で再認識しました。出だしを間違えると、最後まで電車に乗り違えたようにうまくいかないものです。特急で行くはずが、鈍行に乗ってしまったようにだらだらと冗漫になってしまう。それに、長編小説を書ききるためには、「同じことを、同じ情熱と、同じ忍耐力で、持続する」ことが大切です。言葉にすると平凡だけど、平凡の非凡、実行がむずかしい。


p.204~

 昨年(1995年)、「戦後50年の締めくくり」という言葉が氾濫した。私は、その言葉を聞くたびに、第二次世界大戦というあれほどの戦争が、50年で締めくくられてしまうのはおかしいと思った。納得がいかなかったのである。
 1985(昭和60)年12月、中国で取材していた私は、胡耀邦総書記とお会いする機会に恵まれた。そのとき胡耀邦さんが、私に発した一言がいまだに忘れられない。
 私は胡耀邦さんに次のように云った。「日本の侵略をそこまで責めるのならば、イギリスの犯した阿片戦争は、まさに民族の滅亡に繋がる重大な侵略ではないですか。なぜそのことは一言もおっしゃらずに、いつまでも日本だけを責めるのですか」と、阿片戦争によって、上海、厦門の開港を迫り、香港を取り、当時の中国を半植民地化したイギリスの侵略行為に思いを致した。
 すると、胡耀邦さんはこう云われた。「中日戦争からはまだ40年しか経っていないが、阿片戦争からは100年経っている」。私はこの一言を聞いて忸怩たる思いがした。ああ、中国という国は歴史を百年単位で区切りにする国であったか、と。


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 歴史が個々の人間と別に存在する何物かではなく、人々の集まり及びその個々の人生の時間を歴史と呼ぶのであれば、「歴史を忘れるな」という命題と、「時が自然に解決する」という命題の矛盾が際立ってくるように思います。「過ちを繰り返さない」と「歴史は繰り返す」も同様です。

 時間を数量的に捉える限り、「戦後65年の反省」とは、「『戦後50年の反省』から15年の反省」を含むはずのものですが、人は普通はこのような重畳的な時間の捉え方に耐えられないはずです。人が時間の中で生きることが老いることと同義であり、その先に死があるのであれば、人の時間を歴史の側から強引に断ち切られて殺されるという出来事だけが、現に人々の歴史として残っているように感じられます。