犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ブログ

2010-08-04 23:22:02 | その他
 人が時間を割いてブログを書く目的の1つには、世間での表面的な人付き合いに窒息し、ブログの中で自分自身と向き合って毒を吐くという点があると思います。私個人の勝手な感想としては、この毒の強さが、ブログという媒体の価値を高めているように思われます。ちなみに私の場合、このブログを書かなければ死んでしまうという切実感はありませんし、書いても書かなくても世の中など全く変わりません。
 単に腹が立った、頭に来たという程度のことであれば、勝手に自分の日記に書いていればよく、わざわざプライベートを世界に公表する必要はないはずです。これに対し、実社会の中では偽りの自分を演じるしかなく、しかも個人の無力さを思い知らされている場合、人間の吐く毒は自分自身に向かい、他人にも向かい、複雑に絡み合っているように感じられます。そして、人はなぜかこのような場面においてブログという手段を必要とし、現代の技術がこのような表現手段を発明していることに救われるのだと思います。
 また、そこで語られる言葉は、プライバシーの公表や多数派の形成ではなく、誰か1人だけでも共感できる仲間を探したいという叫びですらなく、他人に言葉を書くことそれ自体が目的であるような、迷走した矛盾だらけの言葉になるのだと思います。
  
 ブログという媒体の価値がこのようなものであればあるほど、考え方の異なる他者との衝突は避けられなくなるはずです。そして、考え方の異なる者からの一方的な批判は、誰しも自分の部屋に土足で踏み込まれ、泥だらけにされてそのまま出て行かれたように感じるものだと思います。もちろん、コメントを受け付ける設定にしている限り、自分の望むようなコメントばかりが寄せられないのは当然のことであり、それが勝手に自分の日記に書いている場合との歴然とした違いでしょう。
 人と人とは、簡単にわかり合うことなどできません。どんなに経験を積んだ精神科医やカウンセラーであっても、その辛い経験をした人自身になることはできない以上、苦しみや悲しみの本当のところまでは理解などできるものではないはずです。そして、人が他者を理解できる限界とは、この理解できないという地点の共有であると思います。

 例えば、子供を亡くされた方が、ブログの中で「子供を喪った悲しみは何ものにも比しがたいものだ」と書いた場合、親や兄妹を亡くされて悲しんでいる方がこれを読めば、自分の悲しみのどん底を否定されたように感じ、さらに傷を深くすることでしょう。逆に、親や兄妹を亡くされて悲しんでいる方が、「私の苦しみは他の何にも増して深い」とブログに書いた場合、子供を亡くされた方は、そんなことはあり得ないと反射的に思うことでしょう。
 そして、人はこのような場合、お互いに敵対的なコメントを送って自分の考えの正しさを主張し合うかと言えば、そのような事実はほとんど存しないように見受けられます。ここには、「ものの考え方は人それぞれ」「多様な価値観をお互いに認め合う」といった通俗的な価値相対主義ではなく、人生の一回性において他者の人生は体験できないという事実において他者と通底してしまうような、逆説的な力が働いているように感じられます。
 ここに言う「正しいこと」とは、述べている内容の正しさ如何ではなく、その一段上の「正しいこと」、すなわち内容ではなく形式の正しさです。

 この「犯罪被害者の法哲学」というブログの題名は、私自身が何か新しい法哲学を世に問おうというような、積極的な目的を持ったものではありません。単に、私の狭い経験から、人は犯罪被害に遭った場合、参考人聴取・実況見分・証人尋問といった法律的な問題と、運命・人生・絶望といった哲学的な問題に同時に向き合わざるを得なくなるという現実を述べただけです。私はこの先、何を書きたいのか、何が書けるのか、自分でも全くわかりません。