犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の裁判所書記官の日記 (1)

2011-07-03 23:54:14 | 国家・政治・刑罰
 刑事裁判の法廷は、国家権力により罪を裁き罰を言い渡す場所であり、厳粛かつ神聖な空間であると一般には思われている。そして、被告人にとっては、確かに人生を賭けた極限的な場所である。ところが、毎週毎週裁く側の書記官席に座り、それが日常茶飯事の光景となると、刑事裁判の法廷は厳粛でも神聖でもなくなってくる。
 裁判官は、まさに国家権力を発動して罰を言い渡す立場に置かれており、緊張感と無縁であることはできない。検察官も同様であり、求刑の間違いがしばしば新聞沙汰となる。また、弁護人の弁護活動の巧拙は、被告人のその後の一生を現に左右する。これらの法曹三者に対し、脇役である裁判所書記官は、自ら主体として動くことがない。ゆえに、被告人や証人、傍聴席の観察という点においては、その地位は法曹三者を凌駕している。書記官の席は、刑事法廷の特等席である、と私は思う。

 もちろん、「一般人には見えないものが書記官には見えている」と悦に入ってしまえば、「だからそれがどうした」との冷や水が浴びせられるのみである。今日、私がこの日記を書き留めておきたいと思うのは、ただ単に書き留めておきたいというそのことだけが動機である。今日のこの気持ちは、今日という日が過ぎれば永久に消えてしまうからである。

 同じ日に全く異質な事件の裁判が入ると、私の頭は混乱してくる。私は、裁判官や検察官ほど頭の回転が良いわけではなく、気持ちの切り替えも上手くできない。そうであれば、同じ日には似たような事件を集めたいところであるが、これも弁護人のスケジュールがあるため、そう簡単にはいかない。今日、この2つの異質な事件が午前と午後に入ったのは、単にそれぞれの弁護人の都合である。
 事件の当事者にとっては、裁判の日は一生に一回の重要性を持つ。しかし、次々と事件を流れ作業で処理していく裁判所にとっては、どれもこれも多数の事件の中の1つに過ぎない。それゆえに、それぞれの事件の異質性の間からは、避けがたく不協和音が生じてくる。もちろん、この不協和音を聞くことができるのは、罪を裁く側の人間のみである。但し、法に従って罪を裁く裁判官は、業務に支障が生じるため、これをあえて聞くことをしない。

 私は今日、この特等席であるところの書記官席で、これまで聞いた中でも特に強い不協和音を耳にした。そして、私はこの音が耳から離れないうちに、書き留めておかねばならないと思う。もちろん、このようなことは公式な裁判所書記官の仕事ではなく、むしろ国家公務員の職務倫理からは好ましくない。しかしながら、私の内心には、税金によって支配される職務倫理よりも根本的な、人の罪と罰に携わる者の倫理があり、これに従うことが善であるとの直観がある。そして、自分だけの日記に書き残し、自分の心の中だけに留めておくならば、ここに何の問題もないはずである。


(2)に続きます。

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