犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の裁判所書記官の日記 (2)

2011-07-05 23:16:46 | 国家・政治・刑罰
(1)から続きます。

 今日の午前中の裁判は、保護責任者遺棄致死罪(刑法219条)であった。数か月前、この事件の起訴状を受理した日のことを、私はよく覚えている。その日の左陪席の判事補の複雑な表情もよく覚えている。
 被告人は、起訴状の公訴事実を読む限り共同正犯のうちの1人であったが、共同被告人とはされていなかった。また、被告人の罪状は傷害致死罪(刑法205条)や殺人罪(199条)とほとんど変わりない内容であった。被告人が保護責任者遺棄致死罪被告事件の被告人として起訴された事実は、訴訟関係者全員がこのA4の紙数枚を信用することによってのみ維持されていた。

 起訴状一本主義(刑事訴訟法256条6項)は、裁判官の予断を排除し、白紙の状態で公判に臨むための制度である。このような講学上の原則は、実務経験を積んだ者の間では、徐々に理想論や机上の空論に変わってゆく。学者からの批判はともかくとして、社会人としては実に正常なことだと私は思う。
 判事補としていくばくかの経験を経た者であれば、未必の故意の認定などという作業は、非常に面倒であるうえに疲労感が募るだけの仕事だと知っている。傷害致死罪と殺人罪の違いは、実際のところは、被告人の殺意の有無で分けられているのではない。そして、これらの罪と保護責任者遺棄致死罪とは、客観的構成要件の違いで区別されているものではない。ごく限られたルールの中で審判を行う者は、客観的事実の確定の不可能性をもって、精密司法が成り立っていることを知っている。

 実体法的真実と訴訟法的真実は別である。このことは、刑事訴訟法を学ぶときに、最初に習得しなければならない原則である。刑法上では殺人罪が成立していたとしても、刑事訴訟法の規定に従って証拠を集めて起訴し、有罪が認定されなければ、刑法上の殺人罪の成立は無意味である。被告人は人殺しであっても人殺しではない。
 実体法的真実が訴訟法的真実によって覆されることに、虚しさを感じないかどうか。また、真実が2つ存在することに、自分の心の中で折り合いがつけられるかどうか。これは、法曹としての資質に関わる問題である。私は、虚しさを感じる人間であり、折り合いがつけられない人間であり、ゆえに法曹適性がない。私は、法曹三者ではない裁判所書記官をしているが、実のところ書記官としての適性もない。

 刑事裁判は、あくまでも起訴状に書かれた事実の有無を判定するに過ぎず、特定のルールに従ったゲームの場である。ところが、嘘を嘘とわかってやっていては、人は仕事が続かない。刑事裁判の仕事に携わっている者は、法曹であれ周辺職種であれ、この仕事に誇りを持ち、社会の役に立っていると思い、日々の職務に邁進している。これは仕事一般に通じる人の心のあり方である。
 被告人には殺人罪が成立していたとしても、殺人罪で裁かれるわけではない。この暗黙の了解は、刑事裁判の制度を運営する者の共通了解によって乗り越えられている。この了解は、証拠がなければ無罪放免であるという決め事によって正当化される。その結果として、客観的事実の確定不可能性を前提としながら、客観的証拠を集めるという矛盾が最後に残される。ところが、この矛盾に突き当たっていては、被告人の犯罪を裁くことはできない。


(3)に続きます。

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