犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

傍聴席の遺影の視線

2007-04-03 21:32:51 | 時間・生死・人生
犯罪被害者遺族による傍聴席への遺影の持ち込みについては、色々と法律的に細かく議論されている。これは、被告人の意思の尊重の問題を超えて法廷の秩序維持の問題となっており、ひいては近代刑事裁判のシステムの妥当性にも関わっている。近代刑事裁判のシステムは遺影を怖がる。法律的な理論としては、被告人が無罪を主張したり軽い犯罪の成立や量刑を求めて争っているときに、遺族による遺影の提示を裁判所が是認する状態は、公正な裁判を歪めるものだという程度の話にしかならない。裁判官は、何よりも国民から予断と偏見を疑われるのが恐ろしく、それ故に遺影を怖がっている。

遺影といえば、どうしてもレヴィナスの「顔」の理論を連想しないわけにはいかない。もちろんレヴィナスの述べる「顔」とは、存在者の現前のメタファーであるが、ここではまさに「顔写真」そのものである。人間は他者の顔に直面するとき、その顔から「殺すな」という命令を受け取る。そこには何の理論的な根拠もなく、ただ人間の前に命令として表れる。事件によって命を奪われた者の生前の顔写真は、その命令の虚無感と永遠性に満ちている。ましてや、その殺した本人にとっては、自分の実存を足下から崩壊させる強力な1枚の写真である。

近代刑事裁判は、法治国家における刑法のシステムを維持するため、実存的な問題を強制的に条文の文言に変換した。法廷の中においては、被害者は条文の中において殺されるしかないし、被告人は「被告人」という肩書きであって、1人の人間ではない。このようなフィクションを一気に壊してしまうのが、遺影の顔写真の視線である。その実体は1枚の紙であるが、公正な裁判どころか、近代刑事裁判のシステムを根底から転覆させる力を持つ。遺影の視線による被害者の実存の現前は、「被告人」という肩書きを奪い取り、誰々という1人の情けないオジサンを浮かび上がらせる。無罪の推定が及んでいながら国家権力によって人身の自由を奪われている弱い市民という建前は、遺影の視線の前には、単なる美辞麗句となる。裁判官は、それ故に傍聴席の遺影を怖がる。

死刑は国家権力による殺人行為であって本末転倒であるという抽象論は、どの被告人や被害者にもあてはまる抽象論にすぎない。傍聴席の遺影の視線は、この机上の空論を一気に現実に引き戻す。人間は他者の顔に直面するとき、その顔から必然的に「殺すな」という命令を受け取る。そして、人間は遺影の顔写真に直面するとき、その顔から必然的に「もっと生きたかった」という意志を受け取る。被害者の顔写真に向き合わざるを得ないのは、無罪の推定が及んでいる「被告人」の顔ではなく、現実の誰々というオジサンの顔である。高尚な死刑廃止条約の条文も、現実のオジサンの前には茶番の様相を呈する。

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