犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その2

2013-06-18 23:11:18 | 国家・政治・刑罰


 パソコンに保存してある過去の文書を流用するという方法は、どんなに問題点が指摘されても、仕事の場面からなくなるものではない。忙しい現場のシステムとして非常に効率的だからである。ワードの置換機能を使い、以前の被告人の名前を今回の被告人の名前に一斉に変えれば、それだけで法律文書の体裁は整う。そして、貴重な時間が捻出できる。

 多忙で目が回っている時には、効率的な事務処理がどうしても必要になる。実務の現場では、1つの問いを深く突き詰めることは、全く無意味で有害なことである。これは、裁判所も検察庁も同じだろうと思う。自分はいったい何のために何をしているのか、訳がわからなくなるのが毎日の事務的な仕事というものだからである。

 このような日常に埋没している私は、流用のために過去の文書に触れることの中に、本来の目的とは全く違う意義を見出した。昔の自分が書いた文書の中に、久しぶりに当事者の名前を見ると、その時の名付けられない心境が芋づる式に蘇ってくるという点である。これは、間違っても懐古や追憶ではなく、未解決の問いの指摘である。

 次から次へと仕事に気忙しく追い立てられている時には、人は過去を振り返っている暇などない。しかし、そうして自分を見失い、足元が揺れて倒れそうになるとき、過去の自分の文書の中に自己欺瞞を見出すことにより、この揺れはなぜか止まる。そしてこの作用は、民事事件よりも刑事事件において強く、中でも自動車運転過失致死罪の裁判において特に強い。

(フィクションです。続きます。)

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