光市母子殺害事件の広島高裁における差戻し審において、元少年が一転して殺意を否認したことにつき、遺族の本村洋氏は「心に入ってくる言葉はない」「非常に疲れた。じっと歯を食いしばって聞いていた」「被告にはとにかく正直に真実を述べてほしい」「被告が反省している姿を見たい」とのコメントを残した。その後、世論の間には元少年の弁護団に対する大きな違和感が広がり、これが橋下徹弁護士による懲戒請求の呼びかけにもつながった。世論からの批判に対して弁護団側は、例によって上から目線による説明付けを図る。すなわち、被告人が裁判において防御権を最大限に行使することは近代刑事裁判の基本原理であり、その当然の行為を批判することは現行の憲法・刑事訴訟法の根幹を全く理解していないことに他ならず、適正手続の保障・無罪推定原則などの憲法上の価値原理に基づく制度的保障を危うくするものであるとの主張である。
この一連の流れの中で注目すべきことは、本村氏本人は懲戒請求を煽動したこともなく、橋下弁護士の呼びかけに対して何も言っていないという点である。そして、元少年の弁護団は本村氏本人に対する批判ではなく、本村氏に共感して弁護団を批判する人々に対する再反論を展開しているという点である。弁護団は、本村氏本人に対する批判は極力避けていると言ってもよい。これは、本村氏が「心に入ってくる言葉はない」と感じていたこと、じっと歯を食いしばって聞いていたこと自体は批判しようがないからである。弁護団といえども、さすがに「元少年の言葉をあなたの心に入れるように努力して下さい」「歯をくいしばらないで下さい」とまでは言えない。これが、当為命題(Sollen)は当為命題に対してしか批判ができず、事実命題(Sein)はそのまま認めているしかないという恐るべき現実である。
政治的な主義主張は、すべて当為命題(Sollen)である。これは、ねじれ国会における自民党と民主党の対立、さらにはアメリカ大統領選挙などを見ていればすぐにわかるが、善悪二元論同士の正義の戦いである。自己の正当性と他者の虚偽性を声高に主張する、政治とはそういうものである。すなわち、「自分は正しい、自分に反対する者は間違っている」式の単純な図式である。元少年の弁護団が、本村氏に共感する世論に対する再反論しかできないのも、この政治的な構図の限界によるものである。弁護団は、「元少年は反省して真実を話すべきである」という政治的な要求に対しては、それは間違っているとの再反論を繰り広げることができる。これに対して、本村氏における「被告が反省している姿を見たい」「正直に真実を述べてほしい」との言葉は、あくまでも自らの内心の記述であり、他者への主張ではない。従って、弁護団も怖くて手がつけられない。
世論が近代憲法の理念を後ろ盾に持つ弁護団ではなく、法律の知識のない本村氏に共感を覚えたのも、この事実命題(Sein)の事実性に基づくものである。近代憲法の理念は、確かに被告人が裁判において防御権を最大限に行使することを保障している。これは歴史の経験の集積であって、弁護団の言うとおりである。しかしながら、問題はその先である。原理原則を展開するならば、そこに収まりきれない人間の感情が二重三重に錯綜し、これを一言で片付けようとすれば、そこには心理的な誤魔化しが生じる。確かに刑罰はどこまで行っても国家による人権の制約であり、冤罪はあってはならず、感情の盛り上がりによる過度の重罰化も問題である。それは重々承知の上で、やはりモヤモヤしたものが残る。近代刑事法の理念は、憲法や条約をもって「モヤモヤする必要などありません」と宣言してくれるが、そう言われるとますますモヤモヤしてくる。そして、物事を簡単に割り切りすぎる弁護団の鈍感さに違和感を覚える。事実命題の事実性は、このモヤモヤしたものの存在それ自体を指し示す。
現代社会において、本村氏のような経験をした人は圧倒的少数である。さらにその中でも、本村氏のようにマスコミに顔を出して語る人は非常に少ない。それだけに、政治的な主義主張ではなく事実命題を事実としてのみ語る本村氏の言葉は、そのままでは怖くて聞けない。何と言っていいかわからない国民は、慌てて体勢を立て直し、本村氏の言葉は従来の枠組みで説明できる形に解釈される。弁護団へのバッシングや懲戒請求も、行き場のないエネルギーがそのような形を採ったものであり、本村氏の意向とは関係がない。本村氏本人は、世論の過剰な盛り上がりについては嬉しいとも迷惑とも言えないが、これは事実命題と当為命題の断絶からすれば当たり前である。元少年を死刑にしても死者は戻らない、それゆえに元少年は死刑判決を受けなければならない、この逆説は当為命題で語れるものではないからである。元少年の弁護団が何より恐れているのは、懲戒請求の殺到よりも本村氏の一言一句である。
裁判において被告人が防御権を最大限に行使することは近代刑事裁判の基本原理である、弁護団によるこの主張は、一般性の中に元少年を解消させる効果を持つ。これに対して、本村氏は被害者遺族の一般性の中に自らを解消させることなく、過酷な運命を課せられた個人に執着し、手探りで論理を組み立てている。そこには、元少年の弁護団とは対照的に、子どもじみた甘えはない。啓蒙思想に基づく近代刑事裁判の大原則は、「悪いことをしたんだから反省して当然でしょう」という常識を見事に逆転させ、それによって広く支持を得た。しかしながら、最初はどんなに新鮮であっても、物事を二元的に割り切りすぎれば、言葉にできないモヤモヤ感は蓄積されることになる。これはまさに歴史の経験であり、人類は人権論が言うところの「歴史の経験から学んだ時」から更に時をを重ねていることの証拠でもある。弁護団が本村洋氏の言葉を恐れているならば、それは自らの偽善性、欺瞞性に気がついていることの表われである。
この一連の流れの中で注目すべきことは、本村氏本人は懲戒請求を煽動したこともなく、橋下弁護士の呼びかけに対して何も言っていないという点である。そして、元少年の弁護団は本村氏本人に対する批判ではなく、本村氏に共感して弁護団を批判する人々に対する再反論を展開しているという点である。弁護団は、本村氏本人に対する批判は極力避けていると言ってもよい。これは、本村氏が「心に入ってくる言葉はない」と感じていたこと、じっと歯を食いしばって聞いていたこと自体は批判しようがないからである。弁護団といえども、さすがに「元少年の言葉をあなたの心に入れるように努力して下さい」「歯をくいしばらないで下さい」とまでは言えない。これが、当為命題(Sollen)は当為命題に対してしか批判ができず、事実命題(Sein)はそのまま認めているしかないという恐るべき現実である。
政治的な主義主張は、すべて当為命題(Sollen)である。これは、ねじれ国会における自民党と民主党の対立、さらにはアメリカ大統領選挙などを見ていればすぐにわかるが、善悪二元論同士の正義の戦いである。自己の正当性と他者の虚偽性を声高に主張する、政治とはそういうものである。すなわち、「自分は正しい、自分に反対する者は間違っている」式の単純な図式である。元少年の弁護団が、本村氏に共感する世論に対する再反論しかできないのも、この政治的な構図の限界によるものである。弁護団は、「元少年は反省して真実を話すべきである」という政治的な要求に対しては、それは間違っているとの再反論を繰り広げることができる。これに対して、本村氏における「被告が反省している姿を見たい」「正直に真実を述べてほしい」との言葉は、あくまでも自らの内心の記述であり、他者への主張ではない。従って、弁護団も怖くて手がつけられない。
世論が近代憲法の理念を後ろ盾に持つ弁護団ではなく、法律の知識のない本村氏に共感を覚えたのも、この事実命題(Sein)の事実性に基づくものである。近代憲法の理念は、確かに被告人が裁判において防御権を最大限に行使することを保障している。これは歴史の経験の集積であって、弁護団の言うとおりである。しかしながら、問題はその先である。原理原則を展開するならば、そこに収まりきれない人間の感情が二重三重に錯綜し、これを一言で片付けようとすれば、そこには心理的な誤魔化しが生じる。確かに刑罰はどこまで行っても国家による人権の制約であり、冤罪はあってはならず、感情の盛り上がりによる過度の重罰化も問題である。それは重々承知の上で、やはりモヤモヤしたものが残る。近代刑事法の理念は、憲法や条約をもって「モヤモヤする必要などありません」と宣言してくれるが、そう言われるとますますモヤモヤしてくる。そして、物事を簡単に割り切りすぎる弁護団の鈍感さに違和感を覚える。事実命題の事実性は、このモヤモヤしたものの存在それ自体を指し示す。
現代社会において、本村氏のような経験をした人は圧倒的少数である。さらにその中でも、本村氏のようにマスコミに顔を出して語る人は非常に少ない。それだけに、政治的な主義主張ではなく事実命題を事実としてのみ語る本村氏の言葉は、そのままでは怖くて聞けない。何と言っていいかわからない国民は、慌てて体勢を立て直し、本村氏の言葉は従来の枠組みで説明できる形に解釈される。弁護団へのバッシングや懲戒請求も、行き場のないエネルギーがそのような形を採ったものであり、本村氏の意向とは関係がない。本村氏本人は、世論の過剰な盛り上がりについては嬉しいとも迷惑とも言えないが、これは事実命題と当為命題の断絶からすれば当たり前である。元少年を死刑にしても死者は戻らない、それゆえに元少年は死刑判決を受けなければならない、この逆説は当為命題で語れるものではないからである。元少年の弁護団が何より恐れているのは、懲戒請求の殺到よりも本村氏の一言一句である。
裁判において被告人が防御権を最大限に行使することは近代刑事裁判の基本原理である、弁護団によるこの主張は、一般性の中に元少年を解消させる効果を持つ。これに対して、本村氏は被害者遺族の一般性の中に自らを解消させることなく、過酷な運命を課せられた個人に執着し、手探りで論理を組み立てている。そこには、元少年の弁護団とは対照的に、子どもじみた甘えはない。啓蒙思想に基づく近代刑事裁判の大原則は、「悪いことをしたんだから反省して当然でしょう」という常識を見事に逆転させ、それによって広く支持を得た。しかしながら、最初はどんなに新鮮であっても、物事を二元的に割り切りすぎれば、言葉にできないモヤモヤ感は蓄積されることになる。これはまさに歴史の経験であり、人類は人権論が言うところの「歴史の経験から学んだ時」から更に時をを重ねていることの証拠でもある。弁護団が本村洋氏の言葉を恐れているならば、それは自らの偽善性、欺瞞性に気がついていることの表われである。
世論が近代憲法や法律の知識を持たない本村氏に共感したことについては、面白い現象だと思います。法学や憲法学が打ち出す見解も正しい命題。世論の非科学的な感受性も正しい命題。この状況は、カントが『純粋理性批判』で指し示したアンチノミーに相当します。ドゥルーズが既に見抜いていたように、反復する出来事が必ずしも同一とは限りません。そこには差異が潜在化しているからです。ところが法学や憲法学の役目は、規範的予期と認知的予期への期待を形式化させることですから、出来事を法的なカテゴライズで同一視しなければなりません。とはいえ、それは法システムが諸々の出来事に伴う差異を盲点として等閑視することで顕在化する同一性です。だから法や憲法が一定の規定を付与する場合、不可避的にその規定では制御し切れない偶発性が伴います。
この法的コミュニケーションのアンチノミー化は、巷のブログで言われる「被害者の人権」への言及を観察してみると、よくわかることです。法律は、統治権力側から市民に対する命令です。一方で憲法は、市民から統治権力側への命令です。だから基本的人権は、統治権力側が限度知らずな法律を規定しないための防火壁と言えます。
刑事訴追で加害者側の身柄を拘束するのは、統治権力側です。ですから、その拘束が不当に処理されないように抑止するためにも、加害者に人権が適用されます。刑事訴追はあくまで加害者と統治権力側との関係です。つまり、刑事訴追では加害者VS被害者という図式は潜在化します。加害者側が企業組織の場合は私人間的効力が加味されることがありますが、今回のような個々人の関係の場合は、適応外です。つまり刑事訴追では、被害者の人権は無関係となります。
ところが昨今のブログで語られているのは、「加害者の人権」よりはむしろ「被害者の人権」です。法学や憲法学から観れば、これは虚構としか言えません。社会学者マックス・ウェーバーが言ったように、近代の学術は脱魔術化しているはずです。機能的に分化した諸々の社会的部分システムが、宗教システムと機能的に代価可能な等価物となったために、聖性を貫くことに必然性が無くなったためです。だから原理的には脱魔術化でもやっていけます。
しかし、学知に依拠しようとしない世論の感受性がアンチノミーとして顕在化するとなると、学術が遂行する脱魔術化は多文脈的に棄却されます。とはいえ、あくまで法学や憲法学をはじめとする学術は脱魔術化を追求します。それが正しい命題だからです。かくして、脱魔術化と再魔術化がアンチノミーの内部で振動することになります。こうなると、まるで脱魔術化を絶え間なく追求していくことが信仰であるかのように作用してしまいます。つまり、終わりの無い脱魔術化の追求が、逆説的にも、魔術的な束縛を生み出しているのです。宗教学者のミルチャ・エリアーデが「非宗教的な人間は宗教的な人間からつくられる」と言ったのは、決して宗教学者の自己欺瞞ではないでしょう。
こうした文脈を背景にするとなると、私や管理人さんを含めて、学術に依拠する方々は今回の弁護団と同じような恐怖感を抱くことになるのではないでしょうか?今受け入れられるのは、高度な学知を語れる学者ではなく、演出としての表出に終始する<プレゼン野郎>です。ベック以降の流行語大賞となったリスク・マネージメントで求められるようになったのは、反証可能性で意見の差異に準拠した学術ではなく、権力ゲームを後ろ盾とした意見の集約となりました。他人の盲点や隠された真理を見つけ出すのではなく、同じ盲点を共有して意思決定へと没入するコラボレーションが、大切に扱われます。
だとすると、夕暮れ時まですすり泣いているミネルヴァの梟たちは、如何にして飛翔できるのでしょう?飛翔したところで、それは世論の眼に映るのでしょうか?私はそこに興味があります。
「加害者の人権」と「被害者の人権」の調整などというパラダイムではどうもならないこと、私も木村様と同じ考えです。第6段落以降について、非常に深い洞察があると思いますので、私ももう少し考えてみたいと思います。
・私が言う差異と巨匠ドゥルーズが語る差異にも、差異があります。
・私が語るアンチノミーとカントが語るアンチノミーも実は全く違う命題であり、両者の命題こそがアンチノミー化しているのかもしれません。
・私が科学的な認識が科学という認識対象できていないのだとすれば、ウェーバーに倣い「脱魔術化」を提起する私の取り組みこそが、実は魔術なのかもしれません。
・そして、認識と認識対象が違うならば、実は「認識と認識対象が違う」というシステム理論的な認識さえも、実はシステム理論という認識対象とは異なっているのかもしれません。
・最終的には、こうして込み入ったことを長々と語る私の言説の方が、<梟>っぽいのかもしれません(笑)
複雑なことを考えている方々は、皆砂を噛むような思いをしているのではないでしょうか?何か、単純化志向が支配的になっているような気が致します。とりあえずニヒニズムに呑み込まれないように頑張ってはいますが、悩ましい限りです。
(誤)・私が科学的な認識が科学という認識対象できていないのだとすれば、
(正)・私の科学的な認識が科学を認識できていないのだとすれば、
「ミネルヴァの梟」の解釈については、色々な人が色々な解釈をしていますね。私は、ちょっと皮肉っぽく、「キセル乗車の乗車駅基準説の論文を書いているうちに自動改札が普及して論文の意味がなくなった刑法学者」とか、「テレホンカードの一体説の論文を書いているうちに携帯電話が普及して論文の意味がなくなった刑法学者」とかが飛翔できない梟の典型だと思っています。
構成主義と存在論はおそらく水と油の関係だと思います。というより、構成主義者なら、構成主義と存在論は「地」と「図」の関係で、一方が顕在化すれば他方が潜在化し、一方を排除すると他方も喪失すると考えるはずです。この見方を存在論者はどう考えるのかによって、反発するかどうかも変わってくると思います。むしろ私がシステム理論に親和したのは、存在論について知識が無かったためだと思っていますし、存在論者の意見には興味があります。私もこちらのブログを参考にさせて頂きます。
システム理論を体系化したルーマンとヘーゲルは、社会学の間でもしばしば対比されてきました。おそらく「ミネルヴァの梟」に対する一般的な解釈は、哲学の不可能性に対する嘆きのようなニュアンスなのでしょうが、ルーマンは以下のような記述で、その悲観的なニュアンスを逆手に取っています。
「われわれは、(中略)いまや、隅ですすり泣くのをいい加減にやめて夜間飛行を始めるように、梟を励ますことができる。われわれは、梟を見張る道具を持っている。そして、われわれは、これは現代社会を探査することであると知っている」(N.Luhmann, Soziale Systeme, S. 661.)。
夜間飛行は暗闇の無視界飛行となります。世界の風景を知るためには、懐中電灯(観察)が必要です。でも、懐中電灯(観察)を使えば、明暗の差異が伴います。そもそも光を当てるとなると、究極的にはハイゼンベルク的な不確定性原理も無視できなくなります(言い過ぎですが)。だから懐中電灯を使う我々にとって、盲点は避けられません。
だから別の梟にも飛行してもらうように励まし、別の懐中電灯で照らして貰うことも必要になります(ネオサイバネティクス)。光で照らす場所を変えることで、盲点をズラす(デリダ)のです。とはいえ、世界の全てを照らすスポットライトを持っている梟はいないので、盲点をズラすことにも盲点が伴います。よって、永久に盲点をズラし続けることで前進していくしかありません。
システム理論的に観た場合、梟には、一見無駄に思えても飛んで貰いたい、と思います。飛んでいるうちに、もっと使い勝手のいい懐中電灯の在り処を発見するかもしれないからです。おそらくルーマンの解釈は、およそこのようなものではないでしょうか。