犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

弁護士における「正義」

2012-11-07 23:11:24 | 言語・論理・構造

 弁護士法1条には「社会正義を実現することを使命とする」と書かれており、弁護士の仕事は「正義」という概念に親和的です。他方で、この単語はあくまでも形式的な抽象名詞であり、個々の具体的な紛争の場面において、何が正義に適うのかを指し示すものではありません。実際の仕事の場面では、ハーバード大学のマイケル・サンデル教授の授業のように議論を深めている暇はなく、自問自答している暇もなく、弁護士は既に正義を実現することを使命としてしまっているというのが実際のところだと思います。

 私が色々な立場を通じて得た印象では、弁護士は常に正義の立場にあります。「正義」という概念を味方に付けることによって、正義の味方になるということです。よって、相手方は自動的に不正義となります。そして、これでは弁護士と弁護士の間で正義と正義が対立してしまうという懸念は、実務上はあまり考えなくてもよいと思います。民事の紛争の当事者の双方に弁護士が就く場合には、お互いに常識的な配慮が働くからです。弁護士会内部での狭い人間関係、仕事の斡旋、委員会の役職などを考えると、あまり非常識なことは言えず、厳しい非難や罵倒もできないということです。

 これに対して、民事の紛争の一方のみに弁護士が就く場合には、法律の素人である他方当事者は苦しい立場に追い込まれることになります。弁護士の側の依頼者は無条件で絶対的に正義であり、その相手方が不正義となるからです。頭が良く、弁が立ち、知識もある弁護士が依頼者のために全力を尽くし、その正義を理路整然と述べたならば、対立する素人は圧倒されるばかりです。そして、そのまま「正義は勝つ」という結論になるのが物事の道理です。個々の弁護士によって程度差はあると思いますが、依頼者を通じて弁護士自身の正義感を満たすという側面は避けられないと思います。

 近時、各地の弁護士会が積極的に推進している「法教育」は、市民が法律的な素養を持つための啓発活動という触れ込みですが、私は個人的に賛成する気分になれません。ここで教育されるところの正義が、人権・差別・平等といった概念と結びついて揺るぎないのに対し、「あまり素人が勉強しすぎて弁護士を頼まなくなったら困る」「対等に弁護士に反論する能力を身に付けられても困る」という本音は変わっていないと感じるからです。正義感の強さによる恍惚感と、不正義の側に置かれる絶望感との落差は、法教育によっては解消しないと感じます。

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