犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

裁判員で急性ストレス障害に 女性が国を提訴 (2)

2013-05-19 23:24:08 | 国家・政治・刑罰

((1)から続きます。)

 元裁判員の女性が実際に感じた苦痛の激しさについては、私が何かを言う権利はありません。これに対し、担当弁護士の立論に対しては、元裁判員の女性が抱えている繊細さを単純な図式に押し込んでいるとの印象を持ちます。あまりに主張と論理が明快すぎて、殺人罪と死刑に対する考察、すなわち生命と死に対する葛藤が全く窺われないからです。私が必死に心を麻痺させてきたのはこの程度の問題なのか、この程度の問題提起で済まされてよいのか、との感を持ちます。

 裁判所の法廷において、遺体のカラー写真は、すでに出来上がった完成品です。私も法廷の中でのみ仕事をしてきたため、生身の人間である遺体の取り扱われ方や、生身の人間である捜査員による写真撮影の現場についてはよく知りません。ただ、実際に写真しか見ていない者として、その写真を完成させた全ての方々への敬意は常時忘れなかったつもりです。生と死に写真でしか向き合っていない私にとって、現場の方々の内心の紆余曲折の程度と麻痺の過程は想像を絶するものです。

 そして、何よりも遺体のカラー写真がそれである理由は、その被写体として登場させられ、何らの反論もできないまま裁判の証拠物件にされている本人の人生によって説明されるしかないと思います。法治国家においては、その政治的な思想の内容にかかわらず、裁判所は事件や事故で亡くなった被害者の全人生の最後の形に制度的に向き合うことになります。法治国家においては、ある瞬間に突然に人生を終えねばならない不条理に対する無数の言葉は、法廷で語られずに示されるしかありません。

 写真を見るのが「意に反する苦役」であるとの弁護士の主張については、第1に、誠実に職務を遂行し、写真を完成させた全ての方々への敬意において、私の倫理観はこれに異議を唱えます。第2に、自分の人生を全うすることなく、ある日突然にその生を断ち切られた人間存在に対する畏怖の念において、私の倫理観は異議を唱えます。写真や、ひいては遺体に対する最低限の敬意を失わないことは、それが急性ストレス障害の原因であることとは矛盾しないものと思います。

 裁判員制度に対する問題提起が、今回のような形を採るのであれば、これは従来の反対論の繰り返しに過ぎないと思います。また、弁護士がこのような場面で憲法の条文を喧伝することは、国民の憲法に対する認識をかなり歪めているものと思います。遺体のカラー写真を見すぎて感覚が麻痺し、常識的な感覚を失った私が僭越に願うことは、写真の気持ち悪さによる裁判員の苦悩ではなく、写真が指し示す命の重さによる苦悩が論じられて欲しいということです。

(続きます。)

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