犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

この1年 (その3)

2011-12-31 00:04:16 | 国家・政治・刑罰
 私が3月11日の大震災の後に感じたことは、人権論は犯罪による死者やその家族の考察が不得手であるのみならず、自然災害による死者やその家族の考察が不得手であるということでした。
 天災による被害の場合には、国家権力による刑罰権の発動の問題が生じず、被告人の人権との調整は必要となりません。それにもかかわらず、人権論はなぜ震災の被災者の不条理感・喪失感・無力感などの最重要部分を捉えることが難しいのか、その理由を改めて考えてみました。

 3月下旬、私の勤める地域では、弁護士会の人権大会シンポジウムの分科会の打ち合わせが予定されていました。ここでは、「死刑廃止に向けた社会的議論の呼びかけ」の戦略がテーマの1つとなっていましたが、震災により延期となりました。主催者としては水を差された形です。
 死刑に関する政治的な選択としては、私は一貫して賛成の意見を持っています。死刑制度は存置すべきであると考えます。但し、これは政策論としていずれか一方を選べと言われた場合の答え方であり、神学論争に発展する問いについては、各自が問いを問うことによって答えを示すしかないと思います。私にとって重要なことは、世論調査による死刑賛成論・反対論の割合ではなく、自分の心の中の死刑賛成論・反対論の割合です。

 私が関心を寄せていたのは、死刑廃止を求めている弁護士の哲学ないし倫理が、この震災による夥しい生命の終了と人生の断絶を目の前にして、どのような洞察を見せるかということでした。死刑は人の生命を奪う点において他の刑罰と問題の本質を異にするならば、死刑に含まれるところの死の考察に引き付けられざるを得ないからです。
 私が死刑廃止論に求めていたのは、(1)震災により失われた生命、(2)殺人事件により失われた生命、(3)死刑により失われる生命の一元的な洞察でした。すなわち、生き残った側に立つ者は、その生き残った事実とどのように向き合い、さらにはその事実の中でどのように苦しむのか、ということでした。

 そして、上記の問いに向き合っていた法律実務家は、私が知る範囲の話ですが、1人も見つけることができませんでした。これは、国家権力の制約原理である憲法論ないし人権論からの演繹としては、ある意味当然の帰結であったと思います。国家権力による死であるところの死刑と、自然災害による死とでは、問題の入口が違うということです。(法律実務家以外では、作家の森達也氏はこの点に向き合って苦しんでいると感じました。)
 震災の被災者に関しては、各地の弁護士会や有志の団体において「国に対して早急な対策を求める提言」が採択されていたほか、「被災者は平和的生存権が脅かされている」として憲法9条の精神を論じる意見も目に付きました。私はこれらの活動を目の当たりにし、死者の存在が完全に欠落しているとの印象を受けました。また、不条理感・喪失感・無力感といった根本事項への想像力が脱落しており、被災者に寄り添っていないと感じました。

 上記分科会の打ち合わせは、震災一色のほとぼりが冷めた頃を見計らって再開されました。そろそろ「死刑廃止に向けた社会的議論の呼びかけ」をしても大丈夫な時期であり、プロ野球の開幕強行のように顰蹙を買わないだろうとの判断がなされたものです。この活動に携わる多くの弁護士の言葉からは、2万人の死者・行方不明者の前に打ちひしがれている様子は看取できず、その人生の前に立ち尽くした形跡も見られませんでした。
 被災地の2万人の生命と死は対岸の火事であり、「ご冥福をお祈りします」の一言で済ませつつ、松本智津夫死刑囚の生命は地球より重いと述べて疑問を生じない様子は、やはり目の前で見せられると辟易します。私は今年、被災者への視線の軽さを通じて、犯罪被害者への視線の軽さの内実がわかったような気がしました。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。