犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

この1年 (その1)

2011-12-29 22:30:09 | 国家・政治・刑罰
 1年が365日と1/4であることは科学的事実ですが、どこに1月1日を持ってくるかは人為的なものであり、単なる偶然だと思います。平成23年の日本の国民生活に関して言えば、たまたま3月11日に起きた震災を境に二分されており、「今年」で括るのは乱暴な気がしています。
 私は仕事柄、犯罪被害者の置かれている筆舌に尽くし難い状況を目の前にして絶句することが多く、この絶句を言葉にしない限り、法治国家も刑事裁判の正義もあり得ないと感じてきました。その反面として、事件や犯罪以外による不慮の死については、目の前で接する機会がなく、抽象的な理解に止まっていました。過去の文章を見ても、「天災による死者の遺族は、犯罪や事件の場合に比して死の受容が容易である」といったことを書いていたように思います。

 今回の大震災を経験した直後の私の心情は、この国の多くの人々と同じように、目の前の細々した仕事を前にして、「こんなことしている場合か」という焦りに覆われていました。すなわち、「こんな仕事が一体何になるのか」という、1人のちっぽけな人間の実存不安でした。そして私は、やはり多くの人々と同じように、「自分ができることをするしかない」というお決まりの理屈に逃げました。
 私のこの間の心情の変化は、過去に刑事裁判に携わる者として、犯罪被害者とその家族に接するようになった頃と非常に似ていました。私は、筆舌に尽くし難い人の死を前にして何もすることができず、「自分ができること」、すなわち刑事裁判の儀式を誠実に遂行していました。1人のちっぽけな人間の実存不安は、調書や判決書の誤字脱字を探しているうちに消えました。

 天災による突然の人生の断ち切られ方は、事件や犯罪による突然の人生の断ち切られ方に似ています。仕事も家事もその日で終わり、読みかけの本の続きが読まれることはなく、「3年日記」も「5年日記」もその日で中断し、カレンダーに毎日書いていた体重や血圧の推移もすべてが無意味になり、将来に備えて蓄えていた貯金は一瞬にして「遺産」となり、しかもその絶望を本人が語ることはできません。これは、今回の震災を通じて、私が改めて肌で感じたことでした。
 それと同時に、私は、刑法学における被害者への視線が、震災で亡くなった方々への法律家の視線と重なることに気がつきました。「哀悼の意を表する」「冥福を祈る」というときの偽善性の形が似ているということです。刑法学は行為を能動的に捉える限り、犯罪者の側から論理を組み立てざるを得ず、被害者はその枠組みから脱落します。同じように、天災による死は国家権力への抑制とは関係がなく、その死は体系から欠落します。

 震災の後、常磐山元自動車学校、日和幼稚園、山元町立東保育所を被告とする民事訴訟が提起されました。この裁判に関しては、過去に私が経験した医療訴訟、いじめ訴訟、過労自殺訴訟と同じ種類の無力感を覚えると同時に、「天災を裁判所に訴えるのはおかしい」といった常識論を唱える世論との懸隔を思い知りました。
 残された者は、死者の存在した穴を埋めるために絶えず動いていなければならず、しかも動いていなければ死んでしまうにもかかわらず死にたくないわけではなく、この言語道断の状況を説明するのは非常に困難です。法治国家においては、裁判所はそのような機関ではないと言われたところで、その役割を担う場所は裁判所しかありません。そこでは、被告側の「立場」「地位」と、原告側の「全人生」「全存在」が衝突します。

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