犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

この1年 (その5)

2011-12-31 03:36:23 | 国家・政治・刑罰
 被災地に対する弁護士会の対応を通じて、私は、犯罪被害者に対する弁護士会の対応との共通点や相違点を観察してきました。その中で、私が引っかかったのは、やはり死刑廃止論との絡みで、各地の弁護士会の声明が殺人事件の被害者遺族を評する際に用いるフレーズでした。すなわち、「被害者遺族に必要なのは厳罰よりも心のケアである」「厳罰化の促進は被害者遺族の心のケアにつながらない」といった言い回しです。
 法律相談の際の別の注意点として、弁護士も法律以外については素人である以上、無責任なことを語ってはならないとの点があげられています。一般的な弁護士は精神医学については素人である以上、「心のケア」といった問題については精神医学の専門家に委ねざるを得ず、弁護士はこれを論ずる権利も義務もないということです。ところが、こと厳罰化や死刑への反対を論じる場になると、弁護士会にとって「心のケア」は万能の地位を与えられているように私には感じられました。

 私も「心のケア」については全くの素人であり、本で読んだ知識しか有していませんが、それ故にその厳しさと絶望は想像を絶します。不眠症・アルコール依存症・PTSD・自傷行為などとの闘いが一生続くというのは、何も大袈裟な表現ではなくて、居るべき人がここに居ないという単なる不在の事実を直視するならば、時間軸は「一生」という形を取らざるを得ないと感じます。また、他者の殺害の現実を通じて自己の自殺の問題に直面し続けることによる肉体的・精神的な限界への追い込まれ方は、経験せずに頭で理解できるものではなく、この存在の形式には戦慄を覚えます。
 「心のケア」を施す側も地獄だと思います。全人格的な体力を消耗し、対立し、孤立し、絶望し、精神疲労で燃え尽きて心身に変調をきたし、自分のほうが「心のケア」が必要になるという話もよく耳にします。躁鬱の繰り返しには際限がなく、薬を増やせば依存症になって新たなる疾患を生み、悪循環に陥るという話も聞きます。一般的な会社のデスクワークよりも遥かに厳しいと思われる仕事について、なぜ簡単に「心のケアをすれば厳罰感情は治まる」と言えるのか、私にはよくわかりません。殺人事件の被告人が法廷で保身に走る行為が、被害者家族への心のケアの効果を真横から破壊しているとあっては尚更のことです。

 被災地における弁護士会の無料相談において相談者が答えを求め、そして弁護士が受け止められなかった問題は、すべての人生における最大の問題、すなわち死の謎でした。法律の専門家にすぎない弁護士は、死について問われれば、相続や賠償金の問題にしか答えられません。これは、私が常々感じている疑問、すなわち法律学の結論が哲学の問いを覆い尽くしていることの派生であり、天災と犯罪に共通します。「心のケア」は、この問題を避けては通れないはずです。
 殺人事件によって最愛の人の命を奪われた家族が論理的に最初に直面するのは、加害者の罰の問題ではなく、被害者の死の問題だと思います。これは天災と犯罪に完全に共通するところであり、法律問題よりも先に来る人生の難問です。存在と不在を問うている場では「恨む」も「赦す」もなく、恨み続けようが赦そうが、謎は謎のまま残ります。連れて行かれた者が帰ってくれば、存在と不在の問いは消え、恨みも赦しも無意味になります。それが不可能であるゆえに、人は世間の自己中心性や、人間の一番醜い部分を洞察せざるを得なくなります。

 「死刑により被害者遺族は救われるのか」という問いを立てられれば、これは加害者側の土俵に乗ります。実際に救われることの証明は難しいからです。このような問いの視角は、国家権力の抑制・刑罰の謙抑性・死刑廃止という体系を実現する際に苦し紛れに出てくるものと思われます。そして、この視角は自然災害の場合には生じないという事実において、まさに死の問題が欠落していると感じます。殺人や死刑を論じつつ、死を見落とすということです。
 政治的な主義主張に熱くなっている者には、暗い部屋で1人で泣き続ける者の姿は見えないだろうと思います。また、「立ち直る」「癒す」との価値が「語り継ぐ」「忘れない」との価値と衝突することの絶望を知らない者は、なぜ人生は一旦狂わされると元に戻らないのか、どのような形で家庭不和や一家離散に派生していくのか、想像も付かないだろうと思います。いずれも自然災害と犯罪に共通する話であり、両者への「心のケア」にも共通する話です。

 この年末、一方で世間の浮かれた空気に背を向けなければ生きられない方々の姿を見ながら、他方では一家で楽しく海外旅行に出かける弁護士の方々の姿を見て、上記のようなことを考えました。

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2 コメント

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Unknown (夢理)
2012-01-13 16:08:50
おかげさまで、意味がわかりました。

私は、カウンセリングとか心のケアというものに漠然と嫌悪感を抱いていました。
もちろん、実際にうけたカウンセリングがうまく行かなかったということも、あるとは思います。
しかし、実際には、心のケアが嫌いなのではなく、「心のケアさえすれば良い」という考え方に反感を抱いていたのだと気づきました。

そもそも、痛みや苦しみは専門家に相談すれば「癒すことができる」などという発想自体が痛みや苦しみの軽視だと思っていました。これは、今でもそう思います。

本当に他人を救おうとすれば、人生を賭すくらいの覚悟が必要だと思います。

だとすれば、私が嫌だったのは、心のケアそれ自体ではなく、心のケアの問題にすべてを押し込めようとすること、そしてその領域で解決しうる問題だと見なされていること、だったのだと気づきました。

同時に、心のケアをするという試みが、「不可能かもしれないが、それでも・・・」というものであるとするならば、もう少し信用してもいいのではないか、とも思わされました。

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夢理様 (某Y.ike)
2012-01-16 00:50:28
ありがとうございます。
そうですね。「癒し」というゴールを設定されると、人はその時点で既定のレールに乗せられます。「先生のためにも早く治らなければ」とのプレッシャーを感じてしまえば、本末転倒ですね。

私も常々、「治さなくてもよい」「ずっと傷を抱え続けていてよい」と言うカウンセラーであれば、信用できると思っています。同時に、このような試みが困難であることの原因も耳にしたことがあります。

その原因の1つは、ケアの不可能性を認めることは、科学の体系に矛盾するということです。「苦しんで下さい」と指示して、本当に状態が悪化してしまえば、科学からは職務過誤の責任を問われますからね。この意味での逆説を理解できるのは、哲学の言語だけだと思います。

理由の2つ目は、経済や経営の問題です。専門家としてお金をもらったならば、その目的に合った成果を挙げる責務が生じます。ここで、「痛みは消えません」という言葉は、やはり誤解に対するリスクがあるようですね。大きな組織なら上からの縛りがあり、小さな組織ならば経営の問題に常時拘束されます。

本当に他人を救おうとすれば、どうしてもこの逆説に踏み込む必要があります。夢理さんのおっしゃる通り、限られた領域で解決しうる問題ではなく、人生を賭すくらいの覚悟が必要になると思います。
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