犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その23

2013-08-07 23:20:07 | 国家・政治・刑罰

 私はいつものように、自分の車で事故現場に行き、道路の状況を把握する。被告人である依頼者と全く同じ道を通り、運転席からの写真を撮る。その間、まさか自分が事故を起こすとは思ってもいない。「車社会では誰しも加害者になり得る」という命題は、運転者の実感とは微妙に異なり、かつ特定の結論を導くための巧妙さを含んでいる。特定の結論とは、事故そのものの悲惨さを置き去りにしたまま、その後の刑罰の内容にばかり関心を置く論理である。

 反対車線のどこからかクラクションの音が聞こえた時、ふと過去の記憶が蘇ってきた。あの時、私は自転車で狭い道路の端を走っていた。後ろから激しくクラクションを鳴らした車が猛スピードで迫って来て、私は自転車を降りて民家の塀にへばりついた。車が私の横をすり抜けるや否や、運転手は顔を出して私を怒鳴りつけ、再び猛スピードで走り去った。まだクラクションを鳴らし続けていた。私は自らの力だけで「世界の願い 交通安全」を成し遂げ、虚脱感に染まった。

 事故現場の状況を空間的に把握している私の頭は、人工的な法律用語に占領されている。前方不注意の過失は主観的構成要件であり、起訴状の公訴事実とは訴因のことであり、過失犯では注意義務違反の特定が問題となる。これは、検察官の攻撃に対する被告人の防御のためであり、刑事訴訟法の当事者主義の帰結でもある。法律論に言うところの具体性とは、極めて抽象度が高く、かつデジタルである。人の生死でさえ、条文の文言の支配を受けている。

 電信柱のたもとに花束が見える。花束が乾いているのと同じように、私の心も乾いている。頭がデジタルになっているとき、心も無機質である。「人としてこの態度はいかがなものか」という自問すら湧かない。人間の理性とは、単に感傷的で説明のつかない部分を見下して、混沌とした自問自答から逃れる方便なのか。私は、被害者が最後に見た風景と同じものを見てはいない。現場では何事もなかったように車が走り、人々が歩き、日常の光景が広がっている。本当にこれでよいのか。

(フィクションです。続きます。)

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