犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その24

2013-08-11 23:54:11 | 国家・政治・刑罰

 私は依頼者の家族に電話し、事務所で打ち合わせをする日時を決める。公判期日での情状証人尋問・被告人質問の練習と、最終弁論の内容の確認のためである。依頼者自身は電話に出られる状態ではない。事前に私が書いたシナリオを読み返してみると、「二度と社会に迷惑を掛けない」「更生して立ち直る」「家族がしっかり監督する」といった言葉が目に付く。人間がやるべきことと実際にやっていることとが、絶望的にずれていることを思い知らされる。

 刑事裁判の現実は、罪を裁きつつ人も裁くものである。このうち、自白事件におけるテーマは、被告人が真人間に戻ることを裁判官に誓い、家族もこれに協力してしっかり監督することを裁判官に誓い、弁護人は少しでも軽い刑を下してもらうよう裁判官にお願いするものである。このシステムは、「応報刑から目的刑へ」という刑事司法制度の大きな思想の流れにも合致している。

 ところが、依頼者が前科前歴のない過失犯の被告人であるとき、この情状酌量を求めるシステムは、明らかにピントが外れる。弁護人が職務命令として仰せ付かっていることは、何をおいても実刑の回避・執行猶予の獲得であり、「更生」「監督」という決まり文句は外せない。しかし、前科何十犯の窃盗・詐欺の被告人が想定されて作られたような約束事は、この裁判には合わない。

 実際のところ、依頼者は「更生すべきだ」と言われれば困惑し、その家族も「監督すべきだ」と言われれば狼狽する。依頼者にとっての唯一の問題は、まさに「この事故」のことであって、将来のことではない。お詫びの言葉を語る資格もないまま、無数の混沌とした論理に人生の全てが支配されている状態において、その沈黙を埋める情状酌量の定型句は、いつも場違いである。

(フィクションです。続きます。)

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