犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その17

2013-07-16 23:28:20 | 国家・政治・刑罰

 法律の文書を作成していると、流れで「遺族」「ご遺族」という単語を使わなければならない場面に遭遇する。私は、この単語が持つ無神経さに対する強い非難を聞いて以来、できる限りこの言葉を避けるようにしてきた。しかしながら、これは単に腫れ物に触るような慎重さで、他人事として気遣いのポーズを示していたに過ぎない。

 私がこの単語を避けなければならないと感じたのは、ある機会に、あるご遺族が「被害者遺族は……」という主語を用いて語り始めるのを耳にした時である。私はその時、自分が瞬間的に「ご遺族の言葉をお聞きする態度」を取っていることに気づいた。私はその言葉に身構えた末、安易な解釈に飛び付いていた。

 言葉は構造を作り、実体のないものを実体化する。しかし、この言葉の特質を言葉として納得しているとき、現実の世界は教科書の中に閉じ込められる。ここでは、ステレオタイプの言語空間が繰り返しお勉強されるしかない。そして、勉強の構えで受け取られた言葉は、その者の生々しい人生とは無関係の場所に追いやられる。

 遺族が「遺族」という主語で語っていたとき、私は無意識のうちに、その言葉を「我々遺族というものは……」という党派的な演説として受け取っていた。主語が固定観念を作り、何かを訴えれば政治的な主張となり、私はマニフェストを聞くようにそれを聞く。私は死を遠ざけつつ、憐憫の情と敬意とを内心で上手くすり替えていた。

(フィクションです。続きます。)

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