犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その16

2013-07-14 22:44:07 | 国家・政治・刑罰

 もう一度、過去の自分が書いたはずの文書を読み直してみる。弁護人は被告人の弁護をするのが仕事であり、被害者は二度と戻らない。被告人質問のシナリオは、やはり巧妙に質問と答えが練られている。そこで示されている最大の対立軸は、「生命と死」でなく、「有利と不利」である。つまるところ、裁判官に対する効果的なアピールである。

 あの時、被告人である依頼者は、自らの油断、気の緩み、考えの甘さを全身で悔いており、自責の念に打ちひしがれていた。色々な心配事が重なって集中力に欠けていたこと、寝不足であったこと、そのような精神状態では運転すべきでなかったことを語っていた。ところが、私のシナリオを見ると、この辺りの具体的な反省の念はバッサリと削られている。

 その代わりに、問答の全体から示されているのは、「被告人は被害者の苦しみを想像して苦しんでいる」ということである。これは極めて抽象的な話であり、掴みどころがない。そして、これを繰り返していると、「被害者の苦しみと加害者の苦しみは比較できない」という命題から、加害者の苦しみの絶対性が浮かび上がってくる。ここから、加害者に有利な構造が作られる。

 弁護人は言葉に敏感でなければならず、検察官や裁判官に言質を取られてはならない。一問一答の内容を慎重に吟味することは、嘘を語らないことによって嘘を語るものであり、言葉に対する能力の悪用という側面を有する。被告人が「自分としては最善の注意をしていた記憶である」と言ってしまえば、これを反証できる者はどこにもいない。

(フィクションです。続きます。)

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