犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

「未来」と「明日」

2012-03-10 23:35:47 | 時間・生死・人生
 3月11日が近づき、震災発生から1年という時間の単位が意識され始めるにつれ、新聞やテレビでは「未来」「明日」という時間の捉え方が目立ってきたように思います。私のこれまでの経験からの感想ですが、「あの日から時間が止まっている」「時間が経つほど悲しみが深くなる」と語る者の声が、この震災の報道においては意図的に選ばれていないように感じます。そして、政治的に意見が対立する問題とは異なり、「未来」や「明日」については、印象操作・公平性・捏造の有無などが問題にされることはありません。

 私が「未来」や「明日」について理屈っぽく突き詰めてみたとき、出てくる解答は1つです。震災とは人生から未来や明日を奪う出来事であり、人が未来や明日を奪われる出来事が震災です。ゆえに、震災を語りつつ未来や明日を順接的に語ることは、根本的な矛盾をはらむものと思います。「未来」「明日」という言葉が目を逸らす場所といえば、それは絶望をどう解釈しても希望に転化されない場所です。70名の小学生が亡くなった石巻市立大川小学校について、「30年後の未来」を考えてみます。

 30年後の未来の世間では、恐らく今の世間と同じように、「人は30代で初めて社会の表舞台に立つ」、「30代はその後の人生の分かれ道である」、「30代の10年間の過ごし方で同年代との差が開く」といった言葉が喧伝されているものと思います。そして、30代の人生を生きる者にとって、これらの言葉から耳を塞いで生きることは難しく、そのような言葉が存在すること自体によって不安が煽り立てられるものと思います。

 30年前に小学生で人生を終えた者については、これらの言葉は真っ赤な嘘です。30代になる前に死んだ者は社会の表舞台に立てず、その後の人生の分かれ道である30代の10年を生きられず、同年代との差が開くことも縮まることもありません。そして、このような言葉が嘘であると述べる権利のある者だけが、なぜかその言葉が嘘であると述べることができません。一方的に爆弾を投げつけられるだけです。これが紛れもない「未来」と「明日」の存在形式だと思います。

 30年後の未来の世界では、恐らく今の世間と同じように、「30代は人が自分を最大限に成長させる10年である」、「人は30代で理想と現実のギャップに悩む」、「人生が好転するか否かを決めるのは30代の心がけ次第である」といった言葉が雑誌の見出しに踊り、電車の中吊り広告からネットの広告まで席巻しているものと思います。そして、経済社会で生きる30代の人々は、自己啓発に余念がないものと思います。

 30年前に震災で我が子を失った親にとって、これらの言葉は嘘っぱちです。30歳まで生きられなかった者は40歳になることもなく、30代特有の悩みを悩むこともなく、その後の人生が好転するも何もあり得ません。そして、このような言葉が嘘であると正当に告発できる権利のある者は、死の冒涜から自分自身を守るため、告発を思い止まらざるを得ないものと思います。これが、刃に刺されつつ嘘で固められた世の中を生きるための方法だからです。これが「未来」と「明日」の存在形式だと思います。

 30年後の未来の世界では、恐らく今の世間と同じように、「30代は広く興味を持ち人脈を広げる10年間である」、「30代でコミュニケーション能力を磨かないと取り返しがつかない」、「30代では稼ぐ力を身につけ年収を上げる努力をすべきである」といった言葉がビジネス本を埋め尽くしているものと思います。そして、これらの言葉をその通りに実践したつもりが、言葉に踊らされて右往左往する事態も同じではないかと思います。

 30年後に30代となる人々の30年前はこの今であり、人間はどの時代も同じ時間軸の中を生きているものと思います。そして、どの時代の世間も、死者にとってはこれらの言葉が嘘であると認識することはなく、「未来」や「明日」という言葉で苦しめられる者の存在に気付くこともなく、30代の人間は40歳になることを恐れて生きるのだと思います。これが紛れもない「未来」と「明日」の存在形式であり、人前で言ってはならないことなのだと思います。

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