犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

埼玉県東松山市 足場倒壊事故 その2

2012-04-02 00:09:07 | 時間・生死・人生

●保育園の立場

 保育園の経営者が事故の報を受けた際の思考は、「とにかく事故の詳細を知りたい」という点に向かうものと思います。その動機は、保育園と工事業者のどちらに責任があるのかという事実確認の意志に基づいており、さらにその心の奥底には、自身に火の粉が降りかかるのか否か、被害者の園児の親に合わせる顔があるのか否かを見極める冷徹な視線があり、これらを払拭することは困難ではないかと思います。

 「大切な園児の命を預っている」という命題は、その命が他者に奪われたのか、それとも当方が奪ってしまったのかによって、正反対の力を生じます。これは、一般に述べられているところのリスク管理、アクシデントへの初期対応の問題に変形されるものと思います。保育園の経営者の地位にある者において、風評の悪化による将来の経営への懸念を考慮しないまま、1人の園児の生死に思考を集中させることは困難だからです。

 一般的な保育園の経営理念は、例えば「児童の心身の健やかな育成を図り、豊かな人間形成の基礎を培う」「1人ひとりの人格を尊重し、地域社会との交流を図りながら社会性のある人間性を育成する」といったものであり、このような事故に際しては、命が失われた現実との残酷なギャップが生じます。ここでは、事故によっても経営理念には傷が付いていないことが先ず確認されねばならないのだと思います。

 もっとも、このような事故に際して公式に語られるのは、経営判断そのものの言葉ではなく、「命の大切さ」であるのが通常です。これは、経営判断によって慎重に言葉が選ばれた結果だと思います。一般論としては、生命の儚さに打ちのめされる哲学的資質と、多数の幼い命を預かる経営者の資質との相性は悪く、この併存を長年にわたり維持することは困難であろうと思います。


●元請業者の立場

 元請会社の経営者が事故の第一報を聞いた瞬間の心情は、問題を早く穏便に済ませたいという以外にないと思います。また、本音のところでは、運が悪かったという不当感から逃れることは難しく、何をどう反省して謝罪するのか、ポイントが上手く掴めていないものと思います。「強風によって足場が倒壊することが予見されたにもかかわらず措置を怠った」という紋切り型の法律論には反射的な異議を生じるだろうとも思います。

 これも私の狭い仕事上の認識に過ぎませんが、昨今の請負会社が施工主から受けるコストダウン・人員削減・工期短縮の圧力は大きく、仕事を回してもらうために安全を犠牲にせざるを得ない風潮には抗い難いと聞きます。経済全体の構造の問題が関係している中で、弱い立場にある業者に対して手抜き工事であるとして道徳的な非難が浴びせられれば、まずは不当感が先に立ちます。人は、このような感情を持つ限り、「自分の会社の足場が人の命を奪った」という現実の意味は上手く頭に入って来ないだろうと思います。

 企業の社会的信用という問題意識から入る限り、組織を中心に生きる者の思考は全て組織人のものとなり、1人の人間としての思考はできなくなるのが通常だと思います。事故への対応などというものは企業の本来の仕事ではなく、突如入り込んできた異物であり、後ろ向きの問題に足を引っ張られている状態です。ここでの切実な問題は、会社の倒産、社員の失職及びその家庭の崩壊といった波及的効果です。

 本来、人間が世間擦れしていない状態では、身内でなくても命の重さや死の重さをそれ自体として捉える能力があり、「悼む」という行為の意味を理解することが可能だと思います。ところが、経済社会においては、かような理解は世間知らずとして嘲笑の対象ともなりかねません。このような事故において、元請会社の経営者が人命の重さを肌で感じる方法は、会社に生じた危機の大きさに苦しむことしかないのだろうと思います。

(続きます。)

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