犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その31

2013-08-26 22:03:40 | 国家・政治・刑罰

 自動車運転過失致死罪の公判において、生者と死者の対照は理不尽の極致である。被告人は何をどう頑張っても生きており、被害者は何をどう頑張っても生きていない。生きて死ぬべき人間は、この論理を支配することができず、深く残酷な沈黙を強いられる。

 ところが刑事裁判の主題は、有罪と無罪の対照、あるいは実刑判決と執行猶予の対照においてのみ発揮され、人の生死は隅に追いやられる。この転倒を転倒と認識せず、「厳罰感情」という単語を発明して済ませている法曹界は、腐っていると心底思う。

 私の偽らざる感覚としては、生と死の対照を脇に置いた実刑と執行猶予のせめぎ合いは、法廷という虚構の上で開催されるゲームの風景である。裁判官は期間限定の神であり、本物の神ではない。人間が作った制度に従って行動している限り、問題はどこまでも他人事である。

 これに対し、人の生死の存在形式は、人間が作った制度ではない。刑事の法廷における生者と死者の絶望的な対照は、それを見る者にとって他人事ではあり得ない。ゆえに人はそこから逃避し、虚構のゲームに没頭する。人のために法律が存在するのではなく、法律のために人が存在する状況である。

 
(フィクションです。続きます。)

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