犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その81

2013-11-18 22:25:43 | 国家・政治・刑罰

 人の命を奪ったことに対する裁きは、もとより司法や裁判官によって与えられるべきものではない。法律の定めは、単に社会生活のための方便である。私は、判決を受けた直後の者に対して語るべき適当な言葉など持ち合わせていない。従って、原則は無言であり、最小限の事務的な会話をなし得るのみである。もっとも、これは沈黙を他者の解釈に委ねている責任逃れであり、論理の限界としての絶句ではない。

 法廷から廊下に出ると、依頼者の会社の上司が歩み寄ってきた。そして、この判決はおかしいと言う。彼がネットで調べたり法律に詳しい人に聞いたところ、この種の事故では禁錮は1年が相場であり、2年は長すぎるという。「あなたがしっかり弁護してくれなかったとは言いませんけど、他の弁護士に頼んでいたら結果はどうだったんでしょうか?」などと、いかにも嫌味な口調で答えにくい問いを向けてくる。

 法律に関する玉石混交のネットの情報や、適当に法律に詳しい者の見解ほどいい加減なものはない。私は、「ほとほと呆れた」という表情をあえて作り、この判決は量刑相場に沿った至極妥当なものであると説明する。現実の職務を遂行するうえで、刑事弁護人に最も必要とされてくる資質は、押しの強さや面の皮の厚さである。これは、法廷の中でも外でも、依頼者側と相手方のいずれに接するうえでも同様である。

 実際のところ、私の心中は激しく揺らいでいた。苦労がどうにも報われない徒労感、思わぬクレームに対する狼狽、敵対的な態度を取られたことへの単純な憤慨などが一度に押し寄せた感じである。ここで、私の中で「呆れ」の感情が優勢になったのは、もちろん人の生命があまりに軽く扱われていたからだ。しかしながら、私が技巧的に表情を作って演技をしたのは、単に保身の念からくる悪賢さの表れにすぎない。

(フィクションです。続きます。)

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