犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その82

2013-11-19 22:48:22 | 国家・政治・刑罰

 約半月後、依頼者と父親が事務所に来る。最後の清算と書類の返還のためである。検察からの控訴はなく、執行猶予の判決が確定した。依頼者は、初めて会った時とは明らかに違う顔をしている。私は今まで人を死なせた経験はなく、それがいったいどのような感覚なのか、人間として正確には理解できない。それで偉そうなことを言っているのだから、弁護士もいい加減である。裁判官はもっといい加減である。

 依頼者は、またお礼の菓子折りの大きな紙袋を手に提げている。申し訳なく、ありがたいと反射的に思っている私がいる。私と依頼者は、確かに同じ論理のレベルにおいて会話を交わし、同じ空気を吸っていることがわかる。この世間を生き抜くうえで重要なものは、社交辞令であり、歯の浮いたお世辞である。特に冠婚葬祭の場の不作法には、独特の軽蔑を含んだ批判的な視線が向けられるものである。

 私はこれまで、死亡事故の被害者の家族から様々な限界的な言葉を伝えられた。「色のない世界に暮らしている」。「いつも暗い水の中に沈んでいる感じだ」。「今も深い地の底に吸い込まれている」。感覚は言語ではなく、言語は感覚ではない。私は、同じ空気を吸っていないことを悟り、吸っていないことの罪悪感の気楽さも悟った。偽善や口先だけの社交辞令は全て瞬時に見抜かれることも察した。

 罪と罰、正義と不正義、あるいは生と死。刑事弁護人と被告人が話し合うに値する問題はごく僅かだと確信していた大学院の頃の私の心は、今でも基本的に変わっていない。ただ、人生経験を積んでいるはずなのに、逆に人生経験の乏しさを思い知らされてばかりいる。仕事への誇りや志の高さでなく、肩書きや年収が人間の評価を左右するこの社会で、私はいつまでも子供のようなことを考えている。

(フィクションです。続きます。)

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